第114章 〜風の決意〜
シルフィーが俺を屋上に呼んだのは、リサンドラが俺の部屋を訪ねてから二週間が過ぎた夜だった。
春も終わりに近づき、夜風はもう冷たくなかった。彼女は欄干に腰かけ、翼を半開きにして夜風を受け止めていた。月明かりに照らされた羽根は青から銀へと微妙に色を変え、まるで呼吸しているかのようだった。
「リサンドラが幸せそうだ」と彼女は言った。
「そう見えるか」
「見える。ここ数年で一番柔らかい顔をしてる」
「それはお前の影響もあると思うぞ」
「どうかな。私はただ、彼女の背中を押しただけ」彼女は翼をすぼめ、少しだけ俺のほうに近づいた。「でも、そのおかげで確信した。私も、準備ができたって」
彼女の菫色の目は揺るがず、迷いもなかった。
「私はずっと、自分のことを半人前だと思ってた。空の民でもなく、地上の民でもなく、どこにも属せない半端者だって。でも、ここでは違う。この塔では、私はただのシルフィーだ。翼があって、飛べて、それで十分だ」
「十分どころか、お前はかけがえのない一人だ」
「ありがとう」彼女は微笑み、欄干から降りて俺の前に立った。「それでね、リサンドラと話したの。彼女は私が次だって言った。自分はもう満たされたから、今度は私の番だって」
「お前たちは本当に仲がいいんだな」
「一番の親友。最初は反発し合ってたのにね」彼女は翼をそっと俺の肩に触れさせた。「でも、親友と順番を決めるようなことじゃないのも分かってる。だから今夜は、自分の言葉で言いたい。私はあなたと共にいたい。新しい命を育てたい。ここで、この塔で」
俺は彼女の手を取った。冷たくもなく、熱くもなく、風を切って飛ぶ者の手だった。
「わかった。今夜はここにいる」
「うん。でも、その前に――」彼女は俺の手を引いて欄干のほうへ歩き、並んで立った。「あそこを見て。村の灯りが増えた。三年前は何もなかった場所に、今は人が住んでる」
「お前が偵察して、安全を確認してくれたからだ」
「そう。私はこの塔のために飛んだ。でも、これからは――自分の家族のためにも飛ぶ」彼女は翼を大きく広げてみせた。「今夜は、飛ばない。ただここにいる。あなたと共に」
俺は彼女の肩に手を回し、しばらくそのまま一緒に村の灯りを見下ろしていた。
やがて彼女は「行こう」と囁き、俺の手を引いて階段へ向かった。自室の前まで来ると、彼女は立ち止まり、振り返って俺を見つめた。
「少しだけ、怖い」
「俺もだ」
「あなたはもう何度も経験してるのに?」
「相手が違えば、毎回が初めてだ」
彼女は少しだけ笑い、扉を開けた。中はきちんと片付いていて、机の上には羽根の手入れ道具が整然と並び、窓辺には小さな風鈴が吊るされていた。
「これはセラがくれたの。風が吹くと、空の音がする」
「綺麗な音だ」
彼女は寝台の縁に座り、翼をゆっくりと畳んだ。
「私の翼、邪魔にならない?」
「ならない」
「前は邪魔だって言われたことがある。狭い部屋では飛べないし、人と並んで歩くときはぶつかるし、寝るときも場所を取るって」
「ここでは誰もそんなことは言わない」
「うん、知ってる」彼女は微笑んだ。「だからここにいる」
彼女は上着を脱ぎ、翼の付け根をそっとほぐした。長い飛行でこわばった筋肉が、静かに解れていくようだった。俺は彼女の背中に手を当て、その温もりを感じた。
「あったかい」
「空の民は体温が低いから、あなたの手はいつも心地いい」
彼女は目を閉じ、しばらくその感触に身を委ねていた。それから俺のほうを向き、唇を重ねた。羽根のように軽く、風のように柔らかな口づけだった。菫色の目がすぐ近くで俺を見つめていた。
「これからも、あなたと飛びたい。どこまでも」
「どこまでも」
彼女は翼を広げ、俺をそっと包み込んだ。羽根のあいだから月明かりがこぼれ、壁に揺れる影を映し出した。
夜が更けていく。風鈴がかすかに鳴り、守護者たちが巡回する足音が遠くに響いた。明日はまた新しい日。新しい飛行、新しい笑顔。でも今夜は、この部屋に、二人だけの静かな時間があった。それで十分だった。




