七 襲い殺して下さい
一条の自宅に戻ると、吉田はいつになく苦しげな面持ちで座っていた。
「すまない千鶴。二人きりで話したいんだ」
「構わぬ」
目の前に正座した千鶴を苦しげに眺めながら、吉田は言った。
「升屋喜右衛門が捕縛された」
「!」
珍しく千鶴は息を呑んだ。
「まさか……」
こちらの言わんとする事を察したのだろう。頷く。言葉はやけに響いた。
「新撰組に、だ」
升屋とは当時維新志士達が集っていた店である。
情報収集。
武器の売り買い。
私的同盟。
それらが行われていた場所であった。
千鶴は升屋を利用した事は無い。なので情報が漏れる事は無い。
されなのに、吉田が知らせて来るのを急いだという事は。
「……何を吐いた?」
吉田は暫く無言になった。
「何を吐いた」
もう一度問うと、顔を上げて答えた。
「俺達の知らぬところで、とんでもない計画が持ち上がっていた」
「とんでもない?」
「洛中を、火の海にすると……」
「何!?」
千鶴が目を見開く。
「具体的には……何処に火を付ける気なのだ?」
ぼそぼそとした口調。
「御所と荒神口のん中川宮邸。混乱に乗じて、参内しようとする中川宮と会津容保を途中で襲撃、言っては黒谷の会津邸へ討込みをかける。長州は七卿を擁して出陣し、京都を占領して一気に詔勅を手に入れる。失敗した時は長州に天皇を奉ずると……っ」
どん、と吉田は畳を叩いた。
「成功するはずが無い!」
また畳を叩く。
「成功が許されるはずもない!」
どん。
「ごく普通の民がどんなに苦しむかわかっていないのか! 維新の目的は民のためだ! 何を履き違えている!」
千鶴は髪を掻き上げた。真っ白い耳が見える。
「そうか……お前は民の為に戦うのだったな……」
いきなり胸倉を掴まれる。びくり、と体が跳ねた。
「お前は違うというのか千鶴!」
「は……放せ……」
震え出した千鶴に気付き、吉田は手を放した。
「すまん」
「いや」
沈黙する二人。ホトトギスが場違いにのどかに鳴く。
「お前が男が怖いのを知っていたのに……・」
つ、と千鶴は立ち、障子を開けた。
「ほら、吉田。見てみろ。あのホトトギスはつがいだ」
ゆっくりと顔を上げると、寄り添ったホトトギスが鳴いている。
「あれはな、私の故郷ではテッペンカケタカ、というのだ」
「故郷……会津か?」
「ああ、テッペンカケタ! テッペンカケタ! と鳴くだろう。それでテッペンカケタカだ」
「俺には今までそんな風には聞こえなかった……」
「では何と聞こえていた?」
えへん、と咳払いをして裏声を付く。
「キョッキョケキョケキョ!」
「ふ……ふふ……はははは」
千鶴は笑った。けらけらと。
「何だその奇声は、はははは!」
「お前が言えといったんだろう! そっちこそ奇声だ阿呆! はははは!」
「誰が阿呆だそれを言ったら貴様は阿呆の塊だ! あはははは!」
ひとしきり笑い合った後、障子を閉める。
千鶴はまたきちんと正坐をした。
「吉田。私は完全に維新の為に策を練っているわけではない」
吉田も坐り直す。
「解っているさ。お恋の為にはこうするしかないのだろう」
「否」
障子から日の光が蜜色の髪を光らせた。
「私の利己主義でやっているのだ」
蜜色の髪に思わず手を伸ばそうとして、やめた。
「天照大神は太陽の女神だったな。では、月は?」
「何だ藪から棒に」
「さっきのお前も相当藪から棒だったぞ」
「……そうだったな。月は、月読命、天照大神の弟だ。日本ではそういう事になっている」
「日本では?」
「欧州ではダイアナという女神だ。狩りが好きな猛女」
「へえ……流石神まで策に使うだけあるな」
心底感心したらしく、何度も頷かれる。
「それから、欧州ではな」
日の光が酷く強い。「もう沈むぞ!」という警告だ。
「月の光を浴び過ぎると狂気を発すると言い伝えられている。月の英語はルナ。狂気の英語はルナシー、だ」
「千鶴……」
「私達は月の下に。お前は太陽の下に」
吉田が膝を上ずらせて、寄って来た。
「千鶴、それでも、それでも策を授けてくれ! 頼む!」
千鶴は目を閉じた。
「その情報は誰からだ?」
「山崎。新撰組監察方山崎蒸!」
目を閉じたまま、思考を巡らせる。
「それは……確かな情報だな」
「ああ」
即答であった。
「吉田。貴様はどんな方法でも良いのか?」
「構わない。奴らの愚挙を止められるのなら、どんな方法を使っても良い」
「ならば」
筆と硯と紙を取り出す。
さらさらと書きだされる作戦を読んで、吉田は息を呑んだ。
「本気か?」
「本気だ。どんな方法でも構わぬと、言ったであろう」
「……・分かった……」
深く深く沈みこんで、吉田は立ち上がった。
「吉田。くれぐれも今日は外に出るな。お前は必要な人物だ」
こちらを見てにっこり笑ってきた。
「千鶴。お前は嫌かも知れないが、俺はお前が好きだ。これ以上ない友人だと思っている」
「吉田……」
頼りなげに手が動いた。女々しさに自分で舌打ちした。結局手は何も掴まなかった。
「山崎に伝えてくる」
襖が閉まる直前、吉田と目が合った。穏やかな目だった。
「心配するな」
「京焼き打ちを阻止する」
新撰組局長近藤が宣言した。
ずらりと並んだだんだら模様の顔が引き締まる。
「監察方の情報によって、今宵討幕派の会合が開かれる事が分かった!」
近藤は拳を握った。
「奴らの言い分はこうだ「京を焼き、新たなる自由で民衆が幸せな国を作る」」
だんだらの羽織が風に揺れる。
「あえて言おう! 馬鹿言ってんじゃねえや!」
日が暮れていく。
「町を焼いておいて神様気どりか! 自由な国であろうがなかろうが仁義ってもんがある! 俺達新撰組の仁義は人々を護る事だ! 護って護って死んだら本望! 護って護って生きたら恩の字! それで俺達は士道を掲げてるんだ!」
日が落ちる。辺りを紫色に染めていく。赤と青の境界線が分からない。
「俺達が京を護る!」
「ウオオオオオッ!」
気合いの声が上がった。
「場所は池田屋だ!」
日が落ちた。月影は雲に隠れた。漆黒の闇夜。
ざ、ざ、ざ。
街道を歩く音。
幽霊のように提灯が点っている。屋号は「池田屋」。
沖田総司は扉を開けた。体が興奮して血が滾った。出迎えた女中が悲鳴を上げる。
その悲鳴をかき消すように、近藤の声が響いた。
「御用改めである!」
一気に新撰組は突撃した。階段までは一本道である。
維新志士の一人が飛び降りてそのまま刀を突き立てようとした、沖田総司がその切っ先を刀の峰で受けた。相手が動転した隙に足払いをかける。倒れるとその喉元に刀を突き立てた。
がたがたがた。
刀を引き抜かれると同時に、階段からその維新志士は落下した。
階段を三段上がる。
沖田は跳躍した。
階段の上で待ち構えていた維新志士を逆に頭上から襲った。
一人の脳天を割った感触があった。
もう一人は下から上がって来た原田の槍の餌食となる。
「土方さんも来れば良かったな」
土方は監察の情報が間違っていた場合に備えて別の店に行っていたのである。
「うおおおおッ」
今度は横腹を狙って来た。
「甘ぇよ」
刀で受け止める、そして跳ね飛ばした。相手は階段から落下した。
「一人逃げたぞッ!」
階下から数度の斬り合い音の後、大声が聞こえた。
「何やってんだ」
「構わん。今はこの大勢が先だ」
近藤が冷静に言う。近藤は本当はいつも冷静なのだ。激情には絶対に駆られず、状況を見事に判断する。そして決定を下す。
沖田達はそれに従う。
だってそうだろう刀が持てる身分になったら、大将は有能な奴が一番に決まってるじゃないか。
襖に血が飛び散る。
畳に内臓が飛び散る。
維新志士が三人走ってきた。一人を斬った時壁際に追い詰められた。
ザクッ。
二人の刀が首の両サイドスレスレにささる。
「危ねっ」
敵の背後か隊士二人が斬り付けた。二人はばったりと倒れる。
連続剣技で維新志士を斬り裂いていく。
「何故だアアッ」
維新志士の一人が叫んだ。
「何故この世は俺達を受け入れない!? 何故だ!? 誰か教えてくれ!」
絶叫しながら男はこちらに突っ込んできた。
「そんな大事な事をなあ!」
腹に刀を突き立てる。
「てめえで考えないから受け入れられねえんだよ!」
維新志士が倒れた。
「土方副長の部隊到着です!」
隊士が叫ぶ。
「おうおう、野郎のビビる顔ってのは艶が欠けて面白くねえ」
階段から逃げようとした維新志士を斬ったのであろう。だんだらの羽織が血に染まっている。
土方達が持って来た松明に維新志士達の躯が映し出された。
唯一残った維新志士が叫ぶ。土方が答える。
「慈悲を!」
「与えねえ」
「助けてください!」
「許さねえ」
「命ばかりは……」
「不許可だ」
「自害を……」
「許してやる」
維新志士は自らの喉を脇差で掻き切った。
「おいで、マリア」
鳩が慶庵の呼びかけに応え、縁側に止まった。彼自慢の夜でも使える伝書鳩だ。
「千鶴。池田屋の一件は巧くいったようですよ。維新志士は全滅です」
池田屋の一件を操ったのは千鶴であったのだ。
長州派の手で維新志士達を殺しては、他の何人もの維新志士が自分も切り捨てられるのではないか? という危惧を抱く。
現に千鶴は切り捨てた。
池田屋に揃った面々には千鶴一派が同じ文書を配って歩いた。「今宵池田屋に来られたし。長州派人斬り一味、またの名を飴買い幽霊、墓場の火の玉」と。
千鶴達の名が漏れる事は無いが、決定的な名乗りだ。誘われて池田屋に集まった面々は何の疑いも抱かず池田屋に集合した。
そして千鶴は、新撰組を手駒に使った。
池田屋は升屋の拷問に耐えかねての自白と、合致する集会場所だったのである。
ただ日時が違うだけ。監察の山崎が「日取りが早まりました。今夜です」と言えば新撰組は池田屋を襲撃する。
襲撃は成功した。京に火を放とうとしていた維新志士は全員死んだ。
全ては千鶴の手の内のはずだ。
しかし。
「あに様、如何したの? そんな不安そうな顔して」
「……・そんな顔をしていたか?」
「していたじゃなくて今もしてるよ? 如何したの?」
不安を表に出すのは自らに禁じているはずだった。不安でそわそわしている策士など信用されない。
「如何も……せぬ……」
策略において勘を信じてはいけない。策略と斬り合いは違う。
なのに……この胸騒ぎは何だ……?
「あに様、あのね、辻斬りしちゃいなよ」
「! いきなり何を……?」
文机がガタンと音を立てる。
お恋は畳の上できゃらきゃら笑った。
「だってさ、だってさ、あに様なんかモヤモヤしてるんだもん。モヤモヤしてる時は自分が一番やりたい事をやる特別な日なんだよ。お祝いなんだよ。僕なら一番は人斬りだよ」
「……貴様……まさか本当に辻斬りを……」
「だーいじょうぶ、あに様に言われた人以外は斬ってないよ」
急に立ち上がったため文机がまた音を立てた。
「出かけてくる」
「うん。いってらっしゃい。あに様」
「いってらっしゃい」を強調して、妹は見送った。
千鶴は走った。昨日の雨でぬかるんだ土が着物に跳ねた。気付かず走り続けた。
道を歩くのがじれったくなった。
薄青の着物は月夜ならば見える。だからお恋は黒を着る。千鶴が来ているのは女物の薄青い紫陽花柄の着物だった。しかも草鞋ではなく草履だった。
「構うものか」
屋根の上に跳ね上がる。お恋ほど巧くは無い早くもない。それでも屋根伝いの方が早い。カツカツと河原が鳴った。
吉田稔麿が住んでいる対馬藩邸の前で屋根から飛び降りる。
大きな木造りの戸をどんどん叩いた。
「失礼! 失礼! 開けてください! 開けて! 開けろオッ!」
「何どすかあ?」
寝巻きに羽織をひっかけただけの女中が出て来る。
「吉田は、吉田は居るか!?」
女中は顔を顰めた。
「けったいなおなごやなあ。吉田さんなら居てはりますよ」
心の底から安堵の息が出る。膝が崩れ落ちそうだ。
「ああ、出て来はった。あんまり夜中に騒がんでおくれやす」
暗闇の奥からゆっくりとした足取りで、人が来る。
「吉田……」
出てきた男は千鶴を一瞥して女中に問うた。
「何じゃい、このおなごは」
「何や彦左衛門さんに会わせろ言うてはるんどす」
「……へえ……別嬪じゃのお……。男吉田彦左衛門、別嬪が夜来るのは大歓迎じゃ」
声が途切れそうになる。
はく、はく、と口を開き、再び問う。
「吉田……稔麿は……?」
「何じゃい」
残念そうな上迷惑そうな顔で彦左衛門は唾を吐いた。
「あいつなら、今晩は大事な事があるとか言うて出かけたわ」
唇が乾き切った。
「出か……けた……?」
「おう。じゃけえねえちゃん、わしと今晩遊ばんかあ?」
もう声は聞こえていなかった。
即座に踵を返して池田屋に走った。理性では行ってはいけないと分かっていた。新撰組は未だ確実に居る。
屋根に再び飛び上がった。暗闇に生える白。薄青は白に見える。
屋根の上からずっと下を見た、何度もバランスを崩して転んだ。痛みを感じる間もなく走った。
見つけた。
池田屋から……一条の千鶴一派の家に向かう途中の道で! 倒れている吉田稔麿を。
「吉田あッ」
屋根から飛び降りる。
「吉田! 吉田!」
「お……千鶴かあ……」
発せられた声は酷く眠そうであった。
「無事だったんだな……良かった……」
千鶴は叫ぶ。
「何を言っている! 私に安否の気遣いなど必要な訳が無かろう! 貴様こそ何故外に出た!?」
半分眠りかかった目を開けてこちらを見て来る。
「いや……山崎の奴に騙されちゃってさ……。千鶴が池田屋に居るって……。てっきり作戦変更なんだと……」
嘘だ。本当は。千鶴を守ろうとして池田屋に行ったのだ。
「愚か者! 無能! 阿呆!」
「……はは……俺は千鶴を怒らせてばっかりだな……」
「違う! そんな事を言いたいのではない! 察しろ馬鹿め!」
吉田はゆっくりと目を閉じて、懐の何かを掴んだ。
「お前の考えは俺には察する事はできない……。お前の頭が良すぎるからな……。だから勝手に言わせてくれ……俺は死んでもお前が好きだ……一番の友人だ……」
吉田の腹からは血が出尽くすくらい流れ続けている。
「私も……私もお前が一番の友人だ! 死んでも、死んでも!」
吉田がいつもの安心感を与える微笑を浮かべた。
「千鶴……それじゃ駄目だ……」
目が閉じられていく。
「お前の人生はこれからまだあるんだ……もう一番なんて決めるなよ……」
目が完全に閉じられた。
「吉田ッ。起きろ吉田ッ! 目を開けろ! この私が言っているのだ! 目を開けろオオオッ」
漆黒の闇に雨が降り始めた。
吉田稔麿。享年二十三歳。葬儀は本人の生前の希望により神葬される。
翌日、京の町は新撰組の凱旋で沸き立った。
「ねえ、あに様、町の人達、楽しそうだね」
お恋が石段に座って眺める。
槍や刀を鮮やかに、「誠」の旗を振り立てて、だんだらの羽織が歩いて行く。
「おーっ氷! 氷じゃねえか!」
「……土方……」
能天気な声に顔を上げると、土方の端正な顔があった。
「昨日は大変だったんだぜえ。維新志士とか名乗る無頼野郎共をばっさばっさとよお。ん? どうした? 氷」
「……ね……」
懐刀に手をかけた。
「死ねえッ土方!」
懐刀が抜かれるギリギリでお恋が止めた。ぎちぎちと刀を抜こうとする手と押さえる手。押さえる手の力の方が強い。
耳元でお恋が囁く。
「あに様、此処は人通りのど真ん中だよ?」
軽い音を立てて懐刀が落ちた。
「おいおい、本気で殺そうとするなよ。俺は死ぬ気はねえから、お前が捕まるぜ。じゃ、またな、氷」
ひらひらと手を振って土方が行列に戻る。
「お恋……」
小さな声。
「帰るぞ……」
「うんっ待ってあに様!」
懐刀をそっと拾い上げ、お恋は呟く。
「他人が殺してちゃ、うぞうぞしないなあ。別に僕の獲物だった訳じゃないけど」
2006年ごろ初稿 2018年9月23日誤字脱字訂正