銭不足と人心荒廃と社会不安と
七世紀の終わりに日本初の銅銭(富本銭)が鋳造されてから、本格的に貨幣経済が社会に浸透し始めたのは、十二世紀に平清盛が対宋貿易に乗り出してからとされている。足利幕府三代将軍義満は朝廷の反対を抑え込んで勘合貿易に乗り出し、一度の交易で二十万貫もの銭を輸入したという(「教言卿記」応永十四年九月二十二日条)。
しかし、明の冊封下に入ることを意味していた朝貢貿易に関しては義満自身忸怩たる思いがあったらしく、次代義持に対し中止を遺言したのである。
一方明側の経済政策は、国内においては紙幣と銀を使用し貴金属類の海外流出を抑止するとともに、朝貢国に対しては明銭を下賜する方針で臨んだ。朝貢貿易を停止した日本国内では、義満期に大量に輸入して以降、銭の総量が目減りし続ける状況が続くこととなったのである。
早くも義持期にはその命令による鋳銭が行われているが、問題解決にはほど遠い結果に終わっている。
義持がやろうとした幕府による鋳銭を現代に喩えるならば、政府が通貨を直接発行するようなものだ。近代国家であれば、どこの国でも通貨発行権は、政府から独立した中央銀行が独占しており、政府が野放図に通貨を増刷できない建前になっている。家のコピー機で印刷した紙幣が店で受け取ってもらえないのと同じ理屈である。
皮肉なことに義満期においては、明王朝が日本銀行の役割を果たしていたのである。
応永三十年(一四二八)三月、足利義持が死去し、更に同年(四月に正長に改元)七月、称光天皇が崩御したことで社会不安が高まり、正長の土一揆が発生する。
「柳生の徳政碑文」に刻まれている
正長元年ヨリサキ者カンへ四カンカウニヲヰメアルヘカラス
(正長元年より先は神戸四箇郷に負い目あるべからず)
の文言はあまりにも有名だ。
義持治世末期には早くも銭不足が顕在化しており、郷民層に行き渡らなくなって、借金(ヲヰメ=負い目)が常態化していた当時の世相が碑文に反映されている。
俗に「早起きは三文の得」と言われる。一貫は百文だが、銭節約のため、労を惜しまず朝早く起きて九十七枚の銭を紐に通せば、市場はそれを一貫と見做したのである。戦国終期には、七十枚を一貫と見做したという(これを省陌または短陌という)。
銭不足が行き過ぎて、最終的には「早起きは三十文の得」になったという次第だ。
銭不足に伴う社会不安、人心の荒廃は、戦国時代という未曾有の混乱をもたらすこととなった。
語弊を恐れず極言すれば、戦国大名が追求していたものは、当時極端に窮乏していた「銭」という戦略物資だったのである。




