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第29話 「ルール破りの訪問者」


第29話 「ルール破りの訪問者」



陽翔―――



「……捨てた?」


俺の口から漏れた言葉は、乾いた音を立てて静寂に消えた。

目の前の美月は、まるで自ら断罪を待つ罪人のように、固く唇を結んで(うつむ)いている。


「…………そんなに、簡単に忘れられるものなのか?」


「……未練がましい思い出なんて、今の私たちが愛し合うのには不要だと思ったの」


美月は、顔を上げ、挑戦的にそう言い放った。

けれど、テーブルの上に置かれた彼女の手は、言葉とは裏腹に小刻みに震えている。

その震えが、彼女の言葉が「真実」ではないことを雄弁に語っていた。

俺は、少し冷めたトーストに視線を落とし、深く息を吐いた。

怒りはない。

ただ、どうしようもない違和感だけが胸に広がっている。


「……無理だよ、美月。人間はコンピューターじゃないんだ。記憶はそんな簡単に消せるもんじゃない」


「え……?」


「嫌な記憶を忘れることはあっても、大切だったはずの時間を、自分の意志で消去することなんて……絶対に出来る訳ないよ」


俺は、顔を上げ、美月を真っ直ぐに見据えた。


「…………なぁ、もしかして……悪魔に何かされたんじゃないのか?選択肢で選んで話せないとか、そーゆう事なのか?」


悪魔は、俺たちに数々の理不尽な選択を()いる。

もし、美月の記憶の欠落に、あいつが関わっているとしたら――。


「……」


俺の問いかけに、美月の瞳が大きく見開かれた。

動揺。

恐怖。

そして、絶望。

彼女の瞳に、色々な感情が垣間見える。


「なぁ、美月……」


俺が、さらに言葉を続けようとした瞬間―――


フッ。


唐突に、世界から音が消えた。

エアコンの稼働音も、窓の外から聞こえる鳥のさえずりも、時計の秒針の音さえも。


(……あぁ、またか)


俺は、反射的に天井を仰いだ。

良いところで邪魔が入る。

いつものことだ。

どうせまた、赤黒い血文字が浮かんで、理不尽な選択を迫ってくるんだろう。

俺は、慣れっこになった絶望と共に、どこかに浮かぶはずの文字を探した。


「……な、んで……?」


動けないはずの美月が、凍りついた時間の中で、信じられないものを見るような顔で震えている。


「……っ?!」


俺の経験上、選択肢が出ている間、妻たちの時間も止まっているはずだ。

美月を見ると、その表情は、単なる驚きではなく、ありえない事態に直面した底知れない「恐怖」に染まっていた。

俺が、その表情に違和感を覚えた、その時だった。

現れない血文字の代わりに、空中から漆黒の闇がにじみ出してきた。

選択肢ではない。

もっと、生々しくて、悪意に満ちた「意思」そのものが、そこに実体化しようとしていた。


「お前か……」


俺の声に呼応するように、空中に浮かんだ闇が人の様な形を成していく。

ボロ布を(まと)った、骸骨のように痩せこけた体躯。

乱れた赤い髪の間から、不揃いに並んだ四つの赤い瞳が、ギョロリと俺を見据えていた。

吐き気を催すような腐臭が、凍りついたリビングに充満する。

こいつは、選択肢なんて無機質なものじゃない。

俺たちを嘲笑(あざわら)い、(もてあそ)ぶためにそこにいる、絶対的な「悪意」の塊だ。


「カカカ……なんだその顔は? 餌を待つ犬のように、空中に浮かぶ『血文字』を探していたのか?」


悪魔は、愉悦に顔を歪めて、ギザギザの歯を剥き出しにした。


「残念だったな、陽翔。今回は『選択』などない。ただ、この美月の極上の悲劇を、特等席で見物しに来ただけだ。それから、ほら、2人もそこにいるぞ?」


悪魔が、節くれだった指を指すと、そこには、怯えながらこちらの様子を伺う紬希とひなたの姿があった。

美月は、それを見てさらに驚いた顔をする。

俺は、事態が飲み込めず、思わず声を荒らげた。


「ひなたと紬希!?出かけたんじゃなかったのか??……どうゆう事なんだ?美月。説明してくれ」



美月―――


「……無理だよ、美月。人間はコンピューターじゃないんだ。記憶はそんな簡単に消せるもんじゃない」


陽翔の言葉が、優しく、そして鋭利にわたしの胸をえぐる。

やめて。

そんな真っ直ぐな瞳で、わたしの嘘を見抜かないで。

わたしは、悪魔に魂を売ったのよ。

「消せるわけがない」大切なものを、自らの手で切り離したのよ。


「……なぁ、もしかして……悪魔に何かされたのか?」


ビクリ、と肩が跳ねた。

図星を突かれた動揺。

陽翔、どうしてあなたは、こういう時だけ勘が鋭いの?

わたしが必死に築き上げた「冷徹な女」の仮面が、あなたの言葉一つで剥がれ落ちそうになる。


「なぁ、美月……」


あなたが更に踏み込もうとした、その時――


フッ。


世界から音が消え、空気が凍りつく。

この感覚は……また「選択」?

いいえ、違う。

今は、選択肢の実行中だから選択は無いはず。


(まさか……)


代わりに現れたのは、吐き気を催すほどの腐臭と、圧倒的な悪意の塊。


「カカカ……」


(……っ、あなた……!!)


わたしの視線の先で、醜悪な骸骨がわらっている。

悪魔。

わたしの記憶を奪った張本人。


(どうして出てきたの!? )


わたしの混乱を嘲笑うように、悪魔は愉悦に歪んだ顔で告げた。


「残念だったな、陽翔。今回は『選択』などない」


その言葉に、全身の血が逆流するような寒気を感じた。

嫌な予感がする。

この化け物は、わたしの想定していた「地獄」よりも、もっとむごたらしいショーを始めようとしている気がする。


「それから、ほら、2人もそこにいるぞ?」


悪魔の指が、部屋の隅を指し示す。


(やめて……言わないで...)


そこには「誰もいない」ことにしなきゃいけないの。


(紬希の犠牲も、わたしの惨めな見栄も、全部ぶち壊すつもりなの!?)


陽翔が、その指の先を目で追う。

そして――彼の瞳が見開かれた。

そこには、息を殺して立ち尽くす、紬希とひなたの姿。

本来なら透明になっていて、出かけていて「そこに居ないはずの設定」の二人が、怯えた表情でわたしたちを見つめている。


(……ああ、終わった)


わたしの足元から、床が崩れ落ちていくような感覚。

「二人きり」という舞台装置。

「出かけている」という優しい嘘。

わたしが、必死に守ろうとした、最後のプライド。

その全てが、悪魔の一言で粉々に砕け散っていった。


「ひなたと紬希!? 出かけたんじゃなかったのか?? ……どうゆう事なんだ? 美月。説明してくれ」


陽翔の、責めるような視線が、わたしに戻ってくる。

その瞳には、混乱と、そして「裏切られた」という疑念の色。

わたしは、唇をパクパクと動かすけれど、声が出ない。

喉が張り付いて、呼吸さえ忘れてしまう。


(……説明? 出来る訳ないじゃない。あの子たちが、わたしの罪を知りながら身を引いてくれたなんて……わたしが、それを知りながら、あなたを騙して二人きりの時間を演じていたなんて……!)


「……っ、……あ、ぅ……」


わたしは、ガタガタと震えだした膝を抑える事もできず、ただ絶望に染まった瞳で、陽翔を見つめ返す事しか出来なかった。

世界で一番見られたくない「無様なわたし」が、今、白日の下にさらされていると言うのに。

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