第26話 「泥の中の月」
第26話 「泥の中の月」
美月―――
暗闇。
今の私には、この冷たくて静かな闇が何よりもふさわしい。
「……はぁ、はぁっ」
ベッドの端に座り込み、自分の震える指先をじっと見つめる。
陽翔に「お前、本当に美月か?」と、問われたあの瞬間、私の中の何かが音を立てて砕け散った。
怖かった。
バレることが怖かったんじゃない。
彼の中にあった「私」という存在が、嘘で塗りつぶされていくのを見るのが死ぬほど怖かった。
(……何も思い出せない)
いくら記憶の引き出しをこじ開けても、そこには埃さえ落ちていない。
彼と踊ったはずのダンス。
そのステップ。
その時の彼の表情。
その時に交わした会話。
何ひとつ。
悪魔に差し出した代償は、想像以上に私を「空っぽ」に変えていた。
「……っ……うぅ……」
膝を抱えて、声を殺して咽ぶ。
陽翔を救うために、彼と一緒にいたいが為に、思い出を捨てたのに。
その結果、彼の心を一番深く傷つけているのがこの私だなんて。
(私は……偽物……?)
いいえ、そんなことはない。
今、この胸を焼き尽くしそうなほどの痛みも、彼を独占したいと願う狂おしいほどの独占欲も、これは間違いなくわたしだけのものよ。
(……陽翔。あなたは今、あっちで何を言われているのかしら)
ひなたの、太陽のような励まし。
紬希の聖母のような献身。
きっと、暖かい光の中で、あなたは癒やされているのでしょうね。
わたしという毒を、その光で洗い流して。
「………そんなの、許さない」
暗闇の中で、私の瞳が妖しく光る。
たとえ中身が空っぽだとしても。
たとえ過去を失った人形だとしても。
私は、あなたを離さない。
「私の……陽翔。……私だけを見て。私だけの毒で、もう一度あなたを染め上げてあげるから……」
その時、世界が止まった―――
カチカチと音を立てていた時計の針が微動だにしていない。
わたしは、すぐに理解した。
「……悪魔ね」
ベッドの下の闇からヌルりと現れる醜悪な悪魔。
「カカカ...ご明察」
「……なんの用?」
悪魔は、ギザギザの歯を見せて醜く笑った。
「カカカカッ!! 実に見苦しいな、美月! まさか、これほど無様に自滅するとは。我の想像を超えた傑作だったぞ!」
耳を刺すような高笑いが部屋に響き渡る。
私の目の前で、四つの赤い目が愉悦に歪んでいる。
「 お前は、陽翔との『今』を手に入れるために、一番大切な思い出を差し出した。だが、皮難なものだな。その『思い出』が無いせいで、陽翔にお前が『偽物』だと言われるとはな」
悪魔の細長い指が、私の頬を氷のような冷たさでなぞる。
「温泉旅行という最高のステージを用意してやったと言うのに、結局このザマか。泥にまみれた惨めな人形。お前のついた嘘の匂いに気づいた陽翔の軽蔑に満ちた瞳……。思い出すたびに、心臓が握り潰されそうだろう?」
頬をなぞる、死人のような指の感触。
吐き気がする。
けれど、私はその手を振り払うことさえせず、ただ、冷え切った瞳で悪魔を見つめ返した。
「……ふふ、傑作? ええ、そうでしょうね。あなたのような下俗な化け物には、これ以上ない見せ物だったかしら」
体の震えを止めるために、自分の腕を強く抱きしめる。
爪が食い込み、鋭い痛みが走るけれど、その痛みだけが私が「生きている」証拠だった。
「陽翔の瞳……そうね、あの悲痛な光を思い出すたびに、私の心臓は、泥を啜るような絶望で満たされるわ。否定なんてしない。私は今、あなたに言われた通り、惨めに壊れかけている……でも」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
膝の震えを意志の力でねじ伏せ、顎を上げ、鏡の中の自分をチラリと見る。
そこには、陽翔の知らない「醜い私」がいた。
「勘違いしないで。私が絶望しているのは、嘘がバレたからでも、偽物だと言われたからでもない。あんな顔をさせてしまったのが、わたしの知らない『過去の私』だということが、耐え難いほど憎らしいだけよ」
私は、悪魔の目を真っ直ぐに射抜く。
「思い出なんて、あの子たちにあげればいいわ。過去の記憶にしがみついて、おままごとをしているがいい。今の私には大切な記憶が無い。けれど、陽翔に軽蔑されたこの『痛み』は『今のわたし』だけの本物よ」
私は、唇の端を吊り上げ、歪んだ微笑みを浮かべてみせた。
「陽翔が私を拒むなら、私はその絶望すら糧にする。……見ていなさい。思い出を失ったこの空っぽの器に、陽翔の憎しみでも、嫌悪でも、あるいは絶望でもいい……全てを注ぎ込ませて、もう一度彼をわたしの色に染め上げてあげる。温泉旅行? あんなのは前戯に過ぎないわ。……ねぇ、悪魔。ゲームの続きを始めましょう? あなたが期待する『修羅場』という名の、最高のダンスを」
「カカカッ!面白い。面白いぞ美月。記憶を取り戻すチャンスをやろうかと思ったが、気が変わった。紬希が、お前と我の取引を知ってもそれを黙ってる事を選んだ。その代償として、お前と陽翔が、明日2人きりで過ごすことになるとしてもだ。……明日、お前は陽翔に過去を問い詰められ、地獄を見る事になるだろう。それでも、お前はその無様なダンスを踊っていられるか見ものだな」
悪魔は、満足そうに笑うとわたしの返答も待たずに闇に溶けて消えて行った。
悪魔が消えた後の静まり返った部屋でわたしは立ち尽くしたまま、しばらくその場から動けなかった。
やがて、凍りついていた時間がゆっくりと動き出し、時計の秒針が、カチ……カチ……と音を刻み始める。
わたしは、唇を血が滲むほど噛み締め、絶望と、歪んだ歓喜が混ざり合ったような表情で立ち尽くす。
「……あはっ、あははは……っ」
喉の奥から、乾いた笑いが溢れ出した。
あんなに真っ直ぐで偽善者な女が、私の「嘘」を、この「罪」を、知ってなお黙っていることを選んだというの?
……助けられた?
いいえ、違うわ。
彼女は、陽翔を傷つけないために私を「利用」しただけ。
そして、その代償として明日、私を陽翔という名の「地獄」へ一人で放り込むことを決めた。
(……明日。陽翔と二人きり)
陽翔は、絶対に私を許さないでしょうね。
思い出せない「過去」を問い詰められ、答えられない私の無様な姿を、彼はどんな冷たい目で見つめるのかしら。
軽蔑。
不信。
怒り。
想像するだけで、全身の血が凍りつくような恐怖に襲われる。
「……上等じゃない」
私は、ベッドのシーツを爪が剥がれるほど強く掴み、暗闇の中で瞳をギラつかせた。
「無様なダンスなら、死ぬまで踊り続けてあげるわ。たとえ明日が、陽翔に心を切り刻まれる地獄の日になったとしても……。その間、陽翔の瞳に映っているのは、世界でわたし一人だけ。紬希の優しさも、ひなたの光も届かない場所で、陽翔はわたしだけを憎み、私だけを問い詰め、私だけを抱きしめる……」
頬に一筋の涙が伝う。
けれど、その口元は美しく、残酷に弧を描いていた。
「……待っているわ、陽翔。あなたがわたしを壊しに来る、最高の朝を…」




