第25話 「翳る事の無い太陽」
第25話 「翳る事のない太陽」
ひなた―――
美月ちゃんが、逃げるように出て行って、紬希ちゃんが、怖い顔でそれを追いかけていった。
バタンとドアが閉まる音が、静まり返ったリビングに響く。
残されたのは、わたしと陽翔くんだけ。
陽翔くんは、美月ちゃんが出て行ったドアを呆然と見つめたまま、彫像みたいに固まっていた。
その横顔は、見ていられないほど蒼白で、今にも崩れ落ちそうだった。
「……美月」
陽翔くんの唇が、震えている。
「……俺は、何を信じればいいんだ? あいつは……あいつは、本当に……」
陽翔くんの心から、急速に温もりが失われていくのが分かる。
疑心暗鬼。
恐怖。
喪失。
冷たい氷が、陽翔くんの心を内側から食い荒らそうとしている。
(……だめ)
わたしは、首にかけていたタオルをソファに放り投げた。
(ここで陽翔くんが心を凍らせちゃったら、この家は本当におしまいになっちゃう!)
美月ちゃんのことは、紬希ちゃんに任せる。
紬希ちゃんは、賢いからきっと何かに気づいてるはず。
でも、今の陽翔くんを救えるのは、わたししかいない。
わたしは、ドンッ!と床を踏み鳴らして、陽翔くんの正面に立った。
「だーりんっ!」
その声に、陽翔くんがビクッとして、虚ろな目をわたしに向けた。
「……ひなた?」
「わたしの目を見なさい!」
わたしは、両手で陽翔くんの頬を、バチンッ!と挟み込んだ。
「……っ!?」
「痛い? 痛いよね?でも、これが現実だよ! 陽翔くんは今、ここにいるの!」
わたしは、陽翔くんの冷え切った頬を、お風呂上がりのわたしの温かい手で包み込みながら、まっすぐにその瞳を覗き込んだ。
「ねぇ、だーりん。美月ちゃんが偽物に見えたの?」
「……ああ。思い出の話をした時……あいつの反応がおかしかった。まるで、何も覚えていないみたいに……」
「そっか。……で、それで陽翔くんは、美月ちゃんのことを『知らない人』だと思ったの?」
「……そうかもしれない。俺の知ってる美月なら、あんな顔は……」
陽翔くんが、視線を逸らそうとするのを、わたしは許さなかった。
「ばーか」
「……え?」
「だーりんのばーか!陽翔くんは、美月ちゃんの『記憶』と結婚したの? それとも、美月ちゃんっていう『人間』と結婚したの?」
わたしの言葉に、陽翔くんが息を呑む。
「わたしにはね、難しいことは分からないよ。美月ちゃんが何を隠してるのかも、紬希ちゃんが何に怒ってるのかも」
わたしは、一歩踏み込んで、陽翔くんの胸に自分のおでこを押し付けた。
「でもね、さっきの美月ちゃん……陽翔くんに疑われた時、すっごく悲しそうな顔をしてたよ?」
「……悲しそうな……顔?」
「うん。偽物だったらさ、もっとうまく誤魔化したり、ヘラヘラ笑ったりするんじゃないかな?……あんなに傷ついて、あんなに必死に逃げ出すなんてさ。それって、陽翔くんのことが大好きで、陽翔くんに嫌われたくなくて、怖くてたまらない『本物』の女の子の反応だと、わたしは思うけどな」
それは、わたしの根拠のない直感。
でも、太陽の下ですべてを見てきたわたしの目は、嘘をつかない。
あの美月ちゃんの背中は、演技なんかじゃなかった。
「記憶なんて、どうでもいいじゃん!今の美月ちゃんが、陽翔くんを見てどう思ってるかでしょ。……だーりんには、それが分からないの?」
陽翔くんの胸の鼓動が、ドクン、と大きく跳ねたのが伝わってきた。
彼はハッとしたように目を見開き、そして、ゆっくりと自分の手を見つめた。
「……俺を見て……どう思ってるか……」
「そうだよ! 思い出して!この一週間、美月ちゃんが陽翔くんをどんな目で見てたか!……それは、偽物の目だった?」
陽翔くんの脳裏に、何かが過ったようだった。
そして、ゆっくりと陽翔くんの瞳に、少しずつ光が戻ってくる。
「……いや……違う。あいつは……美月は、俺を愛してくれていた。不器用なままで……」
「でしょ!!」
わたしは、にぱーっと笑って、陽翔くんの首に腕を回して抱きついた。
「細かいことは、あとで聞けばいいの!今は、信じてあげて!陽翔くんが信じてあげなかったら、誰があの不器用な美月ちゃんを信じてあげるのさ!」
陽翔くんが、震える手でわたしの背中に手を回し、ぎゅっと抱きしめ返してくれた。
その体温は、もう冷たくはなかった。
「……ありがとう、ひなた。お前は、本当にすごいな」
「えへへ! わたしは太陽だからね!だーりんの心の曇り空なんて、一瞬で晴れにしてあげるんだから!」
わたしは、胸を張って笑ったけれど、心の中では少しだけ焦っていた。
(急いで、紬希ちゃん……!わたしが陽翔くんを温めてる間に、美月ちゃんの心の鍵をこじ開けてあげて!そうしないと、この家は本当にバラバラになっちゃうよ……)
わたしは、二人がいるはずの寝室の方角を見つめながら、心の中で祈っていた。
その瞬間、世界が止まった―――
今まで、陽翔くんの温もりを感じていたはずなのに、陽翔くんの心臓の音が、ドクン、ドクンと聞こえていたはずなのに……今は何も感じないし聞こえない。
シーーン……。
突然の、耳が痛くなるぐらいの静寂。
「……だーりん?」
陽翔くんが、まるで蝋人形みたいに動かない。
その時、部屋の隅から、ドロリとした「闇」が這い出してきた。
鼻をつく、焦げたような、腐ったような甘い匂い。
「カカカカ……! 昼間からベタベタと暑苦しいな」
美月ちゃんより少し大きいぐらいの身長の異形の存在。
その顔にある四つの赤い目が、ギラリと光った。
目の前にいたのは、陽翔くんから聞いていた通りの醜悪な姿の、あの悪魔だった。
「……悪魔」
わたしは、本能で悟った。
目の前にいる、この生理的嫌悪感を催す黒い塊が、わたしたちの幸せを邪魔し続けている元凶だと。
背筋がゾワゾワする。
足がすくみそうになる。
でも、わたしの背中には、凍りついて動けない陽翔くんがいる。
(……守らなきゃ)
わたしは、震える足を無理やり動かして、陽翔くんを庇うように一歩横に動いた。
そして、その四つの赤い目を、下から睨み上げた。
「……あんたが、悪魔?……臭いよ。腐った生ゴミみたいな匂いさせて、わたしたちの神聖なリビングに土足で入り込まないでくれる?」
わたしは、鼻をつまむフリをして、精一杯の強がりを言った。
怖くないわけがない。
相手は、人間の理解を超えた怪物だ。
でも、ここでわたしが引いたら、陽翔くんが食べられちゃう気がしたから。
「カカカ! 威勢がいいな、小娘。だが、その震えている足はどうした?我に食われるのとでも思ったか?」
悪魔が、ニヤリとギザギザの歯を見せて笑う。
その顔が、ぬるりと近づいてくる。
「……怖くなんてないよ!」
わたしは、両手を広げて、陽翔くんの前に立ちはだかった。
「何の用?陽翔くんは今、大事なところなの。美月ちゃんを信じて、これから迎えに行こうとしてたの!あんたの相手をしてる暇なんてないんだから、さっさと消えて!」
精一杯の去勢。
心臓が、早鐘を打って破裂しそう。
(お願い……消えて)
わたしの言葉に、悪魔は面白そうに喉を鳴らした。
「カカカカカ……そんな事はどうでもいい。我は、お前と話をしようと思ってな、ひなた」
「わたしは話したくない!」
「カカカカッ! 蚊帳の外とはまさにこの事だな、ひなた。お前がここでお花畑のようなくだらない愛を語っている間に、あの廊下で何が起きたのか教えてやろうか?」
悪魔は、廊下へと続くドアの方へゴツゴツと骨ばった指を向けた。
「紬希はな、知ってるんだよ。美月が陽翔との思い出を売り払い、空っぽの偽物になっているという真実をな」
「……美月ちゃんが、思い出を……?」
「紬希には、我が選択肢を与えた。真実を話して家を守るか、それとも美月の嘘を隠し通すのか。健気な紬希が選んだのは後者だ。その代償は、『お前』と紬希の陽翔と過ごす時間だと言うのに」
「……えっ?」
「カカカ!陽翔に真実を知らせるのは酷だと判断したのだろうな。 紬希はお前の時間も勝手に代償にし、美月の黒い嘘を守る道を選んだ。明日、お前は陽翔の隣りには居られない。紬希の『独断』によってな」
悪魔の言葉が、毒のように耳から入り込んでくる。
悪魔は、何がおかしいのか、ギザギザの歯をむき出しにして笑っている。
(美月ちゃんが、思い出を売った?……紬希ちゃんが、わたしの時間を勝手に犠牲にした?)
「うそ……」
わたしは、呆然とつぶやいた。
頭の中に予想外の情報が入って来てぐちゃぐちゃになる。
(紬希ちゃんが、わたしを裏切った?明日、わたしは陽翔くんの隣にいられない?)
悪魔は、ニタリと笑っている。
ほら見ろお前たちはバラバラだ、と嘲笑っている。
(……違う)
わたしの胸の奥で、小さな火花が散った。
(紬希ちゃんは、そんな子じゃない)
わたしは、思い出す。
毎朝、誰よりも早く起きてご飯を作る背中を。
陽翔くんが辛い時、一緒に泣いていた横顔を。
さっき、美月ちゃんを追いかけて飛び出していった必死な姿を。
(紬希ちゃんは……選んだんだ)
陽翔くんに「絶望」を与える真実よりも、「優しい嘘」で守ることを。
その為に、わたしの時間を差し出してでも、その「罪悪感」を、たった一人で背負い込んだんだ。
「……ばっかみたい」
わたしは、俯いたまま呟いた。
そして、拳を血が滲むくらい強く握りしめる。
「カカカ! そうだ、馬鹿な女たちだ。お前も腹が立つだろう? 勝手に自分の時間を奪われて」
「ばっかみたいって言ったのは!!」
わたしは、バッ!と顔を上げて、悪魔を睨みつけた。
目からは、悔し涙が溢れてくる。
「あんたのことだよ!!」
「……あぁ?」
「紬希ちゃんが……どれだけの覚悟でその選択をしたか、あんたなんかに分かるもんか!!」
わたしは、叫んだ。
喉が裂けてもいいと思うくらい、お腹の底から。
「紬希ちゃんはね、陽翔くんの『お家』なの!家を守るために、泥をかぶる覚悟を決めたんだよ!わたしの時間を犠牲にした? ……上等だよ!陽翔くんの心が壊れるくらいなら、デートの一回や二回、いくらでもくれてやるよ!!」
わたしは、ドンッ!と床を踏み鳴らして、一歩前へ出た。
悪魔は、1歩後ずさる。
「それを『仲間はずれ』だなんて……わたしたちの絆を、舐めないでよ!紬希ちゃんが言えないなら、わたしが代わりに言ってあげる!美月ちゃんが思い出を無くしてても、今泣いてるならそれが真実だって、わたしが証明してあげる!」
恐怖なんて、いつの間にかどこかに吹き飛んでいた。
今ここにあるのは、友達と家族を馬鹿にされた激しい怒りだけ。
「あんたの思い通りになんて、させてたまるか!わたしは太陽だもん!紬希ちゃんが守ろうとした陽翔くんも、紬希ちゃんが隠そうとした美月ちゃんの弱さも、ぜーんぶまとめて、わたしが照らしてやるんだから!!」
わたしは、両手を広げて動かない陽翔くんを守る盾になった。
絶対に、指一本触れさせない。
その覚悟を込めて、悪魔を見据えた。
「……おもしろくない。お前たちの絆?バカバカしい。最後には3人のうち2人は消えていなくなるのだぞ?お前達はライバルなんだぞ?くだらない……くだらなすぎる」
悪魔の顔色は分からないけど、明らかに落胆している様に見えた。
悪魔の言った「最後には消える」「ライバルだ」その言葉の一つ一つが、わたしの心に重たい石みたいにのしかかる。
確かに、そうだ。
このゲームのルールは絶対だ。
最後に選ばれるのは一人だけ。
残りの二人は、泡みたいに消えてなくなる。
………でも。
「……知ってるよ」
わたしは、震える声を抑えて、静かに言った。
さっきまでの怒りとは違う、もっと静かで、熱い想いを込めて。
「そんなこと、最初から分かってるよ。わたしも、紬希ちゃんも、美月ちゃんも……みんな、自分が消えるかもしれないって分かってて、それでも毎日笑ってるんだよ」
わたしは、後ろにいる陽翔くんの手に、そっと自分の手を重ねた。
「あのね、悪魔さん。あなたは『ライバル』って言うけど、わたしたちは敵同士じゃないの。わたしたちはね……『陽翔くんを幸せにするチーム』なんだよ」
悪魔が、怪訝そうにわたしを見る。
「もし、わたしが消えても……紬希ちゃんが陽翔くんを支えてくれるなら、それはわたしの願いが叶ったってことなの。美月ちゃんが陽翔くんを救ってくれるなら、わたしは笑って消えられるの」
わたしは、顔を上げて、真っ直ぐに悪魔を見つめた。
そこには、もう完全に恐怖はなかった。
あるのは、可哀想なものを見るような、哀れみの気持ちだけ。
「………それが『愛』なんだよ。自分の勝ち負けよりも、相手の幸せを願うこと。自分が消えても、想いを託せる相手がいること……それが『絆』なんだよ」
わたしは、にぱーっと笑ってみせた。
太陽みたいに、明るく、強く。
「悪魔のあなたには、それが分からないんだね。『自分さえよければいい』って思ってるあなたには。わたしたちのこの気持ちは、一生理解できないよ。……どんなに意地悪な選択肢を作っても、わたしたちの心までは壊せないんだから!」
わたしは、胸を張って言い放った。
「くだらないって思うなら、さっさと帰ってよ!ここは、愛がいっぱいのお家なの。あなたみたいな、孤独な悪魔の居場所なんてどこにもないんだからっ!」
「………………くだらない」
悪魔は、興味を無くした様に後ろを向くと、くだらないくだらないとブツブツ言いながら闇の中へと静かに消えていった。




