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第27話 「お家と太陽のいない日」


第27話 「お家と太陽のいない日」



夜。

重苦しい空気が漂う寝室。

ひなたは、俺の隣りで寝息を立てている。

美月は、ここにはいない。

もしかすると、リビングで寝ているのかもしれないが、今はどう声をかけていいのか分からないから、その方が助かっている。

俺が、ベッドの上でモヤモヤしながら眠れずに天井を見上げていると、そっとドアが開いて紬希が入って来た。

彼女は、俺の隣りに腰を下ろし、俺の頬に優しく手を添えた。


「……陽翔さん。眠れませんか?」


困ったように眉を下げて、慈愛に満ちた瞳で俺を見つめる。


「無理もありませんね。あんな事があったのですから………ねぇ、陽翔さん?……寝る前に、大切なお話があります」


紬希が、ゆっくりと俺の隣に寝転がり、耳元で囁く。


「明日……私とひなたさんは、この家を空けます」


「どこか、行くのか?」


「いいえ。それに、家出ではありませんよ?ふふっ、私があなたを置いて逃げ出す訳ないじゃないですか」


俺を安心させるように、落ち着いたトーンで言い聞かせるように言う。


「これは……私たち3人と、そして、あなたが前に進むために必要な『時間』なんです。明日一日、この家には陽翔さんと、美月さん……二人きりになります」


「え!?」


俺が、少し大きな声を出すと、紬希に顔の前に指を立ててシーッと言われて、慌てて口を抑えた。

そして、ひなたの方をチラリと見る。

ひなたは、何事も無かったかの様にスヤスヤと眠っていて安堵の息を吐いた。

俺が、再び紬希の方を見ると、話を再開する。


「……今日の美月さん、見ていて辛かったでしょう?あの方は今、心の中で迷子になっています。だから……明日は、誰にも邪魔されず、二人だけで向き合ってあげてください」


紬希が、少しだけ伏し目がちになりながら、胸の奥の痛みを隠すように微笑みかけてくる。


「陽翔さんは優しすぎるから、私とひなたさんがいると、どうしても私たちに気を使ってしまうでしょう?でも、明日はダメです。美月さんだけを見て、美月さんの声だけを聞いてあげてください。……明日は、ハンバーグも、卵焼きも、朝から何もありません。洗濯物も、明日は干しません」


紬希は、俺の頬に手を当てて、真っ直ぐに見つめる。


「『お家』としての私は、明日はお休みです。……陽翔さんが、美月さんの心を救い出して、また3人で食卓を囲めるように、明日は、あなたに全てを託します」


色々と聞きたい事はあったが、紬希の真剣な眼差しに、俺はこう答える事しか出来なかった。


「……………わかった」


「行ってらっしゃい…は変ですね。私たちが居なくなるのだから。……どうか、美月さんと一緒に『ただいま』って、心から笑えるようになってください」


紬希が、俺の(ひたい)に額を合わせ、ジッと俺を見つめる。


「信じていますよ。私の、大切な旦那様……」


そう言って、隠れるように布団の中に潜り込んだ。


(………明日は、美月と2人きり……か)


俺は、明日どう過ごせば良いのか悩んでいるうちにいつの間にか眠りについていた。


翌日。

朝、目が覚めると、隣りに寝ていたはずのひなたと紬希、2人の姿は無かった。


(……こんなに早くから2人とも出かけたのか?)


寝ぼけまなこを擦りながら、耳を澄ませてみる。

それでも、聞こえてくるのは壁掛け時計の秒針の音だけ。

分かってはいたけれど、こんなに早いとは思っていなかった。

その静寂は、心臓を直接握りしめられるような不快な冷たさを帯びている。


(……美月は、やっぱりリビングで寝たのか)


朝になって改めてそう思うと、自分の妻にそんな事をさせてしまった事実に、申し訳ない気分が湧いて来る。


(今日は2人きり……事実をハッキリさせないと)


俺は、気だるい体を無理やり起こし、決戦の地であるリビングへと向かった。



美月―――


カチ、カチ、カチ……。


時計の音だけが響くリビング。


(……静かすぎるわ)


キッチンに目を向ける。

そこには、誰もいない。

悪魔に告げられたあの言葉が、毒のようにわたしの思考を侵食して行く。

悪魔は、紬希がわたしの罪を知った上で「陽翔と二人きりの時間」を代償として差し出したと言っていた。


(……どこにいるの? 紬希)


姿は見えない。

けれど、この部屋の隅々に、あの子の「家」としての気配がこびりついている。

磨かれたシンク、整えられたクッション。

見えない瞳が、わたしの背中をじっと見つめているような錯覚に(おちい)る。

あの子は、きっとどこにも行ってなんていない。

この沈黙そのものが、紬希という女の「眼差し」なのだ。


「……っ……」


わたしは、漆黒に近いミッドナイトブルーのニットワンピースを、きつく抱きしめる。

もし、あの子が今、透明な姿でわたしの目の前に立っていたら、わたしのこの惨めな震えを、どんな顔で見ているのかしら?

憐れんでいるの?

それとも、勝利者の余裕で微笑んでいるの?


ガチャリ…


静寂の中に響くドアの音。

ゆっくりとドアが開き、陽翔が入ってくるのが見え、心臓が跳ねる。

彼が、わたしを見つけ、一瞬立ち止まる。

わたしの視線と、陽翔の視線が交差する。

わたしは、絶対に目を逸らさない。

陽翔、あなたは今、この部屋を「二人きりの空間」だと思っているのね。

けれど、わたしには分かる。

この空気の重さ、肌にまとわりつくような静寂。

この部屋には今、わたしたち以外の「意思」を、ハッキリと感じている。


(……笑わせてくれるわ。あの子に見守られながら、あなたに愛をえと言うのね)


「……おはよう、陽翔」


ようやく出た声は、皮肉を込めたつもりなのに、少しかすれていてひどく頼りなく響いた。


「……見ての通りよ。紬希も、ひなたもいない。テーブルには朝食も何もないわ。……あるのは、この冷めきったコーヒーと、わたしだけ」


わたしは、ゆっくりと立ち上がり、陽翔へ、そしてその周囲の「無の空間」へ向かって、挑発するようにあごを上げた。


「……座れば?あの子たちが、わざわざ用意してくれたのよ。この、逃げ場のない『密室』を。あなたの言葉で、この気味の悪い静寂を壊してみてよ。じゃないと、わたし……あの子の視線に、殺されてしまいそうだわ」


陽翔は、わたしの指示を無視して座らずに立ったまま答える。


「……おはよう美月。今日は2人とも出かけてていないんだ。だから、今日は二人だけで朝ごはんを食べてから、ゆっくり話をしたいと思う。……大したものは作れないけど、何が食べたい?」


陽翔は、差し出した誘いを拒むように、立ったまま真っ直ぐにわたしを見下ろしている。


(……その距離が、今のわたしたちなのね)


彼の瞳にある、揺るぎない「決意」が、わたしの嘘と罪を、容赦なく暴き立てようとしているようで――。


「……朝ごはん? ふふ、笑わせないで」


わたしは、冷めたコーヒーをソファの前のテーブルに置き、ゆっくりと音もなく立ち上がった。

ニットが、わたしの身体のラインに吸い付き、夜の残り香を撒き散らす。


「紬希がいなくなった途端に、あなたがその場所に立つの?あの子が命を削るようにして守ってきた、あのキッチンと言う名の『聖域』に。……皮肉ね。あの子が一番喜ぶはずの言葉を、あの子がいない場所で、別の女に贈るなんて」


一歩、また一歩と、彼との距離を詰めていく。

視界の端で、誰もいないはずのキッチンに、透明な姿で立ち尽くして泣きそうな顔でわたしたちを見つめている「誰か」の幻影が(かす)めて消えて行った。


(……見ているんでしょ?紬希。あなたの愛した男が、今、わたしの為だけにキッチンを使おうとしている)


わたしは、陽翔の目の前で足を止め、その胸元に指先を這わせた。

シャツ越しに伝わる、彼の早鐘のような鼓動。


「……何でもいいわ。あなたが作る物なら、毒入りのスープであっても頂くわよ。今のわたしは、それくらい不純なものでしか、満たされないのだから」


わたしは、彼の瞳を覗き込むようにして見つめた。

逃げ場を与えない。

軽蔑しているなら、その嫌悪を隠さずに見せてほしい。


「……ねぇ、陽翔。あの子がいない家で、あなたが作る不器用な味。それを食べた時、わたしの身体は……『美月』として、正しく反応できるのかしら?」


指先に力を込め、彼のシャツを(わず)かに握りしめる。


「……トーストでも、卵焼きでも、好きにすればいいわ。……その代わり、準備が出来るまで、わたしを一人にしないで。……あの子の影が、この部屋に満ちていて、息が詰まりそうなの」


陽翔の瞳が、僅かに揺れた。

その小さな動揺を、わたしは乾いた心で(すす)り上げる。


「……さあ、作って。わたしの記憶を塗り潰すような、最高に惨めな朝ごはんを」



陽翔―――


美月が、難しい言葉を並べて話しかけてくる。

目の下のクマが、昨晩まったく寝ていないことを物語っている。


(美月も、悩んでたんだな…)


「美月……ごめん、言ってる意味が良く分からないんだけど、ご飯は炊いて無いからトーストと目玉焼きで良いか?」


俺は、冷蔵庫からバターを取り出し、2枚のトーストに塗るとサッとトースターに入れる。

そして、今度はフライパンを火に掛けて冷蔵庫から卵を二つ取り出す。


(いつもは、紬希が早く起きて作ってくれてるんだよな)


フライパンに卵を2つ落とすと、ジューッと言う、卵が焼ける美味しそうな音が響く。


「……美月は、醤油だったよな?」


焼けていく目玉焼きに醤油を垂らすと、こぼれ落ちた醤油が焼けて香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

それと同時に、トースターからタイマーが終わった音のチンッと言う心地よい音がキッチンに響いた。


「タイミング完璧だな」


トースターからバターの香りがするトーストを取り出し皿に載せる。

そして、その上に香ばしい匂いのした目玉焼きを載せる。


「さあ!いつまでも立ってないで席に着いてくれ」


黙って俺を見ていた美月を、キッチンにあるテーブルに促す。

美月は、まるで断頭台に向かう魔女の様な面持ちで対面の席に座った。

俺は、グラスに牛乳を注ぎ、テーブルの上に2つ置いた。


(美月は今、何を思っているんだろう?……俺は、美月にこんな顔をさせてしまって、夫失格だな。……いや、違う。彼女を偽物だと疑った時点で、俺はもう『夫』の資格なんて無いのかもしれない)


そう思いながらも、真相を知る為に、まるで尋問のような朝食が幕を開けるのだった。


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