第23-5話 「月食」
第23-5話 「月食」
美月―――
(……息が、できない)
「お前……本当に美月か?」
陽翔のその言葉が、鋭い氷柱になって、わたしの心臓を貫いた。
世界が、音を立てて崩れ落ちていく。
(バレた...)
バレてしまった。
わたしが「思い出」を持たない、空っぽの偽物だってことが。
陽翔の瞳から、いつもの温かい光が消えている。
そこにあるのは、底知れない不信感と、深い悲しみ。
(何か言わなきゃ。誤魔化さなきゃ)
でも、喉が張り付いたみたいに動かない。
「違うの」? 「忘れてただけ」?
そんな安っぽい言い訳が、今の彼に通用する訳がない。
わたしが積み上げてきた「完璧な妻」の仮面が、ボロボロと剥がれ落ちていく。
(怖い)
陽翔に軽蔑されるのが、怖い。
捨てられるのが、怖い。
(……ああ、終わったんだ)
わたしの足元から、暗い穴が広がっていく気がした。
その時──。
ガチャリ
「ふあ〜!いいお湯だった〜!」
唐突に、リビングのドアが開いた。
聞こえて来たのは、緊張感の欠片もない、能天気なひなたの声。
それと同時に、甘いシャンプーの香りが流れ込んできた。
「あれ〜? だーりん、どうしたの? そんな怖い顔して」
ひなたが、首からタオルを下げて、不思議そうに陽翔の顔を覗き込む。
後ろからは、何事かと紬希も顔を出してきた。
二人の頬は、桜色に染まっていて、生き生きとした「生」のエネルギーに満ちている。
(……なんて、眩しいの)
さっきまで、死ぬような思いでダンスをしていたわたしとは、まるで違う世界の住人みたい。
陽翔の視線が、ふと彼女たちに移る。
その瞬間、彼の中にあった、わたしへの殺意にも似た緊張感が、少しだけ緩んだのが分かった。
(……今だわ)
逃げるなら、今しかない。
この、弛緩した空気に紛れて、この場から消え失せるしかないと思考を巡らせる。
「美月さん……? 顔色が、真っ青ですよ? 具合でも……」
紬希が、鋭い視線をわたしに向けてくる。
(紬希の目は誤魔化せない。
きっと、何かに気づいてるはず)
わたしは、彼女が伸ばしてきた手を、反射的に振り払うようにして顔を背けた。
「……なんでもないわ」
声が、震える。
(みっともない……女優失格ね)
「……少し、貧血気味なの。……風に当たってくるわ」
それだけ言うのが精一杯だった。
陽翔の顔を見る勇気なんてない。
「美月...」
わたしは、逃げるようにひなた達の横をすり抜け、リビングのドアを開けた。
背中で、陽翔が何か言おうとした気配がしたけれど、わたしは振り返らなかった。
パタン
ドアを閉めた瞬間、わたしと「温かい場所」との繋がりが断ち切られた。
廊下は、暗くて寒い。
わたしは、数歩歩いたところで、膝の力が抜けて壁に手をついた。
「……はぁっ、はぁっ……!」
過呼吸になりそうで、胸を押さえる。
(馬鹿な女……自分から罠にかかって、自爆するなんて)
『時限爆弾』は、無様に爆発した。
(陽翔はもう、わたしを信じないでしょうね。「思い出を捨てた女」「嘘つきな女」そんなレッテルを貼られて、わたしはもう、あの輪の中には戻れない)
「……どうすればいいのよ……悪魔……」
わたしは、ズルズルとその場に座り込んだ。
冷たい床の感触が、わたしの孤独を際立たせる。
誰にも頼れない。
陽翔にも、ひなたにも、紬希にも、誰にも弱味なんて見せたくない。
「……美月さん」
頭上から、静かな声が降ってきた。
ビクリとして顔を上げると、いつの間にか、紬希が立っていた。
リビングにいるはずの彼女が、音もなく追いかけて来ていたのだ。
彼女は、心配げな瞳で、うずくまるわたしをじっと見ている。
(心配? 同情?……いいえ、違うわね)
その瞳は、もっと冷徹に、わたしの「正体」を見極めようとしている。
「……美月さん…何か、隠してますね?」
紬希の言葉が、トドメのように静寂を引き裂いた。
(……最低)
紬希に見られた。
一番、見られたくない相手に。
一番、無様な姿を。
「……何か、隠してますね?」
その言葉が、わたしの逆鱗に触れた。
心配そうな顔。全てを見透かしたような目。
その「聖母」気取りの態度が、今のわたしには反吐が出るほど疎ましい。
(同情? 哀れみ? ……ふざけないで)
わたしは、震える膝に無理やり力を込めて、ゆらりと立ち上がった。
壁に手をつきながらだけど、背筋だけは伸ばす。
顎を上げて、精一杯の虚勢で彼女を見下ろす。
たとえ中身が空っぽでも、わたしは「美月」でいなくちゃいけないから。
「……はぁ。相変わらず、想像力が豊かね、紬希」
わたしは、冷ややかなため息をついてみせた。
声が少し掠れてしまったけれど、気にしていないフリをする。
「隠してる? 馬鹿なこと言わないで。ただの貧血で座り込んでただけよ。それを、鬼の首を取ったみたいに……」
「嘘です」
紬希が、わたしの言葉を遮った。
その声は静かだけど、一歩も引かない強さがあった。
「さっきの陽翔さんの顔……あんな顔、見たことありません。美月さん、あなた……陽翔さんに、何をしたんですか?」
「……っ!」
図星を突かれて、言葉に詰まる。
陽翔の、あの悲しそうな顔がフラッシュバックする。
(うるさい、うるさい、うるさい!わたしが何をしたかですって? わたしだって必死だったのよ!)
心の中で叫んでも、口には出せない。
わたしは、ギリッと奥歯を噛み締めて、紬希を睨みつけた。
「……あなたには、関係ないわ」
「関係あります! 陽翔さんは、私たちの夫です!」
「黙りなさいっ!!」
わたしは、叫んでいた。
自分でも驚くくらい、大きな声で。
紬希が、ビクッとして肩をすくめる。
「……関係ないって言ってるでしょ。これは、わたしと陽翔の問題よ。部外者のあなたが、知ったような口を利かないで」
わたしは、紬希に背を向けて歩き出した。
これ以上、ここにいたら、本当に何かが壊れてしまいそうだったから。
「……美月さん!」
背後で呼ぶ声を無視して、わたしは寝室へと急いだ。
ドアを開け、中に入り、すぐに鍵をかける。
カチャリ
その金属音がして、初めてわたしは呼吸が出来た気がした。
ドアに背中を預けて、ズルズルと座り込む。
(……ああ、もう、めちゃくちゃだわ)
陽翔には疑われ、紬希には怪しまれ、ひなたの笑顔は直視できない。
もう、この家のどこにも、わたしの居場所なんてない。
(……悪魔)
わたしは、暗い部屋の中で膝を抱えた。
(記憶を消せば、うまくいくんじゃなかったの?こんな……こんな惨めな思いをするために、わたしは一番大切な思い出を売ったの……?)
後悔と、孤独と、恐怖。
冷たい闇の中で、わたしは声を殺して泣いた。
わたしは、家族を失ったのだ。




