第23-4話 「月下のダンスと、崩れ落ちる嘘」
第23-4話 【月下のダンスと、崩れ落ちる嘘】
朝食のミッションを乗り越えた後も、俺たちの「欠けた歯車」生活は過酷を極めた。
見えない俺、聞こえない上に話せない美月、手の動かない紬希、歩けないひなた。
昼食の準備も、トイレも、移動も……全ての日常動作が、全員で声を掛け合い、体を支え合わなければ成立しない大仕事だった。
何度も失敗しそうになり、何度も心が折れそうになった。
それでも、俺たちはなんとか一日を乗り切り、ようやく夕食を終えるところまでたどり着いた。
(もう少しで今日が終わるな...)
そして、夕食の後片付けが終わったその時だった。
フッ…と突然、世界を覆っていた重たい霧が晴れるような感覚がした。
その瞬間、俺の目にリビングの明かりが飛び込んでくる。
「うっ、眩しい……」
目が慣れてきてみんなを見ると、美月が、耳を押さえている。
紬希の手が、ひなたの足が、自由に動くようになっている。
「……終わった、のか?」
俺が呟くと、全員が安堵の息を漏らした。
長い長い一日が、ようやく終わったのだ。
「よかったです……ふぅ、なんだか、また汗をかいちゃいましたね」
「うん!これでお風呂に入れるね!」
「ふふっ。ひなたさん、一緒に入りましょうか? お背中流しますよ?」
「わーい! 行こ行こー!」
そう言って、二人は楽しそうにバスルームへと消えていった。
そして、リビングには俺と美月の二人だけが残された。
「……美月は行かなくて良いのか?」
「...わたしは、後で一人で入るわ」
静かになった部屋で、俺はふと窓の外に目をやる。
夜空には、少しだけ欠けた満月が、静かに浮かんでいた。
(……まだ満月とも言えなくはないか)
俺は、窓辺に立つ美月の隣に歩み寄った。
「綺麗な月だな。少し欠けてるけど…」
「……ええ。そうね」
「なぁ、美月。今夜こそダンスしないか?」
俺の言葉に、美月がゆっくりとこちらを向く。
その瞳は、月の光を浴びて妖しく輝いていた。
「……ふふっ。ええ、喜んで。もちろん、リードしてくれるのよね?」
美月は、その誘いをすんなりと受け入れてくれた。
俺は嬉しくなって、優しく美月の手を取る。
「ありがとう、美月。……じゃあ、あの時の曲をかけてくれるか?今夜も、月明かりの下のダンスホールだ!」
美月―――
陽翔の、少年のような無邪気な笑顔。
その言葉が、鋭利な刃物となって、わたしの心臓を貫いた。
(…………あの時の曲?)
時間が、止まる。
わたしの思考が、真っ白に染まる。
(あの時の曲……?なんのこと? どんなメロディ? アップテンポなの? バラードなの?……全然分からないわ)
必死に記憶の引き出しを開けようとしても、そこにはぽっかりと、底のない暗闇が広がっているだけ。
背筋に、冷たい汗が伝うのが分かった。
(……やばい)
心臓が、早鐘を打つ。
わたしの「嘘」が、バレる。
わたしが、大切な思い出を捨てた冷酷な女だってことが、バレてしまう。
(落ち着きなさい美月。あなたは、女優よ。悪魔と取り引きまでしたのに、ここでバレたら全てが無駄になるわ)
わたしは、震えそうになる指先をぐっと握りしめて隠す。
そして、顔を上げて妖艶に微笑んで見せる。
動揺なんて、これっぽっちも見せずに。
「……あら、陽翔」
わたしは、ゆっくりと彼の胸に手を這わせる。
そして、耳元で甘く囁いた。
「……野暮なこと、言わないで」
「え?」
「音楽なんて……いらないわ。今のわたしが聴きたいのは……あなたの、心臓の音だけよ」
わたしは、陽翔の手を取り、自分の腰に回させる。
音楽が無いことを「ロマンチックな演出」にすり替える。
これが、今のわたしにできる、精一杯の誤魔化し方。
「……そっか。……美月らしいな」
陽翔は、少し照れくさそうに笑って、納得してくれた。
(よかった...なんとかなりそうね)
安堵で、膝が崩れ落ちそうになるのを堪える。
でも、陽翔はわたしの腰を抱き寄せると、優しくステップを踏み始めた。
「……じゃあ、俺がハミングするよ。あの曲、俺も大好きだからさ」
陽翔が、口ずさみ始める。
低く、優しい声。
「ん〜ん〜……♪」
それは、ゆったりとしたワルツの旋律。
(ワルツ!...でも、何の?)
わたしは、陽翔に合わせて体を動かす。
陽翔の手を取り、彼のリードに身を任せる。
(記憶はないけれど、体は覚えているはず)
右、左、ターン。
(……あ)
意外にも、陽翔のリードは優しかった。
少し不器用だけど、一生懸命わたしを回してくれる。
くるり、くるりと。
月明かりの下、わたしたちは確かに「ダンス」をしていた。
(……なんだ、踊れるじゃない)
安堵で、胸が温かくなる。
(これなら、バレない)
わたしは、陽翔の瞳を見つめて、妖艶に微笑んだ。
「……ふふっ。陽翔、ずいぶん上手になったじゃない」
「そうか? ……美月のおかげだよ」
陽翔も、優しく笑い返してくれる。
そして、踊りながら、懐かしそうに呟いた。
「……あの時も、こうやって回ったよな。確か...最後に、俺が派手に転んで、美月を押し倒しちゃったんだよな?あの時、美月、すっげー怒ってたけど……」
陽翔が、申し訳なさそうに苦笑いをする。
(……転んで、押し倒した?)
そんな記憶は無い。
でも、ドジな陽翔ならありそうな話だと思う。
わたしは、余裕の笑みを崩さずに、コクリと頷いた。
「……ええ。そうね。腰を強打して……本当に、痛かったわ。ムードも台無しで……あなたらしい、最悪のラストだったわよ」
わたしは、完璧な「答え合わせ」をしたつもりだった。
でも──。
陽翔の足が、ピタリと止まった。
「……え?」
鼻歌のリズムが、止む。
繋いでいた陽翔の手から、体温がスッと引いていくのが分かった。
陽翔が、信じられない物を見るような目で、わたしを見ている。
その瞳の奥で、何かがガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえた気がした。
「……陽翔?」
陽翔が、震える声で言った。
「……美月。あの夜……俺たちは、転んでなんかいない」
「えっ!?」
「お前は……顔が赤いのを隠すみたいに、俺の胸に顔をうずめて『うるさい』って拗ねてただけだ……」
血の気が、引いていく。
全身が、氷のように冷たくなる。
(……罠、だったの…?)
陽翔は、わざと「嘘の思い出」を言った。
わたしが、本当に覚えているか試すために。
そして、わたしは、その毒入りの餌に自ら食らいついてしまった。
陽翔が、一歩、後ずさる。
その顔は、怒りよりも、もっと深い、底知れない「悲しみ」に歪んでいた。
「……どうしてだ?温泉の時も『覚えてる』って言ったよな?あれも……全部、嘘だったのか?」
「ち、違うの!陽翔……それは……」
本当の事は言えずに口ごもる。
わたしは、離れてく陽翔に手を伸ばそうとするけど、陽翔はその手を、悲しげに振り払った。
「……美月…お前……」
陽翔の唇が、震えながら、決定的な言葉を紡ぐ。
「まさか……今の今まで、俺に合わせて『覚えてるフリ』をしてただけなのか……?」
「…………っ」
わたしは、何も言えなかった。
「忘れた」なんて言えない。
「捨てた」なんて、もっと言えない。
ただ、冷たい月の光が、わたしのついた「嘘」と、陽翔の「絶望」を、残酷なまでに照らし出していた。
「お前……本当に美月か?」




