霧がかる塔の中で
霧がかる森の中に、それはあった。
野薔薇と蔦が生い茂っている。記憶の中よりも古びた石造りの塔は、三百年経った今もなお崩れることなくそこにあった。
側に巨大に湖があり、その水が空へと登り付近の山に阻まれてこの地で霧を作るのだ、ということを、フィオナはずっと後になって知った。
かつてフォグレストと呼ばれていた国の西武僻地はこの時代においても竜族の領地に位置している。東大陸を統一した際、フィオナはこの地を解放せず、自らの支配下に置いた。だが訪れることは避けていた。思い出したくないことまで、思い出してしまうから。
それでもフィオナはこの塔にやってきた。
記憶の中のこの塔は随分大きく感じていたが、今見るとさほど大きくはない。竜になった自分よりも小さいような気がしていた。こんな塔で、小さく暮らしていたなんて信じられない。
そっと石に触れてみる。冷たい温度が、指先に移った。
扉は破られていたため、そのまま中に入る。日中にも関わらず中は冷え、暗いため、魔術により灯りを灯した。と、この塔を巣にしていたらしい蝙蝠達が飛び去っていく慌ただしい音がした。塔は荒れ果て、既に蝙蝠達という別の住人がいるらしかった。
階段を一段一段上る度に、当時の記憶が蘇る。
幸福だと思っていた時もあった。
自分をフィオナ・ラインだと信じていて、この塔で、人工精霊のルミナシウスを話し相手にしながら本を読んで暮らしていた。番の白銀が塔を訪ねてきてくれると嬉しくて、何時間でも彼を相手に話した。彼は幸福そうに微笑みながら、フィオナの頭を撫でてくれた。
彼はもう狂っていたのだろう。ままごとのような生活は、いずれ綻び破綻した。フィオナの竜として本能はいずれ開花しただろうし、白銀の狂気は加速しただろう。それでもそれまでの生活で、幸福を感じたことも確かにあった。たとえ偽りの愛だったとしても――。
階段が終わり、フィオナが暮らした部屋に入る。やはり扉は壊されて、床に破片がわずかに散らばっていた。もしかすると、フィオナが塔を出た後に、白銀が破壊したのかもしれない。
ルイが殺した護衛達の遺体は跡形もない。白銀が弔ったのか、野生動物が食ったのかは分からなかった。
フィオナが愛用していた椅子は足が欠け床に転がっていたし、窓から吹きすさぶ風雨により部屋も荒れ果てていた。
読みかけの本は紙が水を吸い膨れ上がっていた。文字もかすれて読み取れない。だがフィオナにはそれがなんの物語か分かっていた。
塔に閉じ込められた姫が、王子によって救い出されるおとぎ話。夢物語だ。
フィオナは本を手に取った。だが風化したそれは持ち上げた瞬間、頁がどさりと抜け落ち床に散った。
何もかも、過ぎ去ってしまった。
何もかも、かつてのままではない。
初めて会った場所なんて決まりきっている。インエットの浜辺でしかない。
ルイと初めて出会ったこの場所に、ルークスが来るわけがないのに、フィオナはこの場所に来てしまった。
やはり彼はいなかった。いるはずがない。
(馬鹿みたいだわ――)
フィオナは汚れることも厭わずに窓辺に腰掛け外に目を遣った。遠い空を水蒸気を含んだ灰色の雲が分厚く覆っていた。かすかに雷鳴が轟いて、時折稲妻が地面を刺した。いずれこの塔の上にもくるかもしれない。
遠くを見つめながら、フィオナは小さく呟いた。
「むかしむかし、塔の中に、ひとりのお姫様がいました――」
その時、カタリと音がした。動物の気配ではない。明らかに、意思を持った何者かが出した物音だ。なぜならその音は、この部屋を目指して階段を上ってくるのだから。革靴の音だ。規則正しく聞こえるその音は、どこか軽快にさえ思える。
やがてその音が、部屋に入口の前で止まった。
――――――静寂。
の後、一人の青年が姿を現し、フィオナを見て目を丸くした。
それは間違いなくルークス・ファルトルだった。フィオナは立ち上がる。
「驚いたな」
と、彼は言った。
彼を見て、フィオナは目を見張った。ルークスは驚嘆していたがすぐに破顔する。
「来てくれると思わなかったから」
彼の姿を見て、フィオナの胸は信じられないほど高鳴った。今まで停止していたのかと思ってしまうくらい、心臓が痛かった。
頭がおかしくなってしまったのかと思った。
自分ではどうしようもないほどに、彼の姿しか目に入らない。
(――美しい、人)
だがフィオナは目を閉じた。彼の姿を否定して、自分の感情を隠すように。
再び目を開いたが、彼の姿を映すことはなく、視線は床に置いた。
「どうしてここに?」
疑問が次々と頭に浮かんだが、それだけをフィオナは尋ねた。ルークスの声がする。
「初めて会った場所で待つって言っただろ」
聞きたいのはそういうことではなかった。ルイでなければ知らないはずだ。初めて会った場所を、ルークスが知るはずがない。
未だわずかに顔を覗かせてくる期待を打ち消している間にも、ルークスは一歩ずつ近づいてくる。
「せっかくだから、色々見て回ってたんだ。ジャグ達が身を隠していた洞窟や、この近くで亡くなった二人が交戦した場所とかさ。だけど記憶が定かでなくて、見つけることができなかった」
やがて視界の中に、彼の足が入ってきた。
声を出そうとして、喉に詰まる。フィオナは平静を取り繕いながら足に向かって声を絞り出した。
「記憶、消えたんじゃなかったの」
はは、とルークスが笑った気配がした。
「それがあいつの悪いところでさ。未練があったんだ。俺の中に戻ってもなお、忘れられないくらいに強い未練だ」
フィオナはようやく顔を上げる。彼の青い瞳が煌めいた。
「もうずっと、思い出してる。前世のことを。
故郷のことや死んでいった仲間のことも、戦いのことも。頭がパンパンでどうにかなりそうなくらい、鮮やかに思い出す。牢でフィオナ・ラインと話して、彼女と友人になったことも、よく覚えている。彼女の死に悲しんだけど、それを認めたくなくて憧れにすり替えてしまったことも――。思い出したと言うよりは、ずっと自分の中にあったものだ。生まれる前からずっと一緒にあった。そのことに、気付いたんだ」
まるで吸い込まれてしまいそうな、魔力をはらんだ美しい瞳だ。
「フィオナ」
彼が一歩近づいたので、思わずフィオナは一歩下がる。胸の前で両手を組んだ。そうしなければ、自分の心を守れない。
「貴方はルイ様なの? それともルークスなの?」
「俺は――」
彼の瞳が陰る。
「俺はルークスだよ。前世を知ってもなお、俺は彼じゃない」
再びフィオナに向けられた瞳は、逸らす前よりも澄んでいた。
「俺は誰かの人生のエピローグになるつもりはない。守りたいものも大切にしているものも俺と彼は違う。俺が歩んできた人生が、俺を俺にしてくれた」
そう言われてよくやくフィオナは、ルークスをまともに見た。ルイの生まれ変わりではなく、ルイの記憶を持ってもなお、己の生を生きるルークス・ファルトルという青年を。
彼と彼は違う、ということが、悲しみではなく当然の実感を持って感じられた。ルイはいない。もういない。だが世界のあちこちに、彼の遺した欠片が散っていた。まるで彼等の瞳に散る星のように。
その光を見つめながら、フィオナは思う。
――それでもわたしは、あの人に死なないで欲しかった。
「俺さ、二十四歳になったよ。少なくとも一つは、彼に勝るものを得た」
唐突にルークスはそう言った。
「俺は生きるよ」
それは己に向けた誓いでもあった。
ルイの体に魂が入り込み、そうしてルークスの中に戻った時、今まで感じなかった一つの感情が、己のうちに湧き上がった。
鮮やかで生々しい、生への渇望だった。
生きたいと、ルイが最期に願った祈りが、ルークスの体を生かしている。だからルークスは命の限り生きるつもりだ。今になってルイという存在は、ありありとルークスの中に溶け出していた。
ルークスはフィオナの前に跪き、頭を下げた。
「もしも貴女がまだ呆れずにいてくれるなら、今世こそ、俺と一緒になってほしい」
竜王に向けての一世一代の告白だった。
「俺と結婚してください」




