大陸会議
一三一八年の春に野薔薇王は各国の指導者を招聘し、大陸会議を開催した。
インエットも小国ながら西大陸へ使者として派遣された縁により手紙を受け取り、ルークス・ファルトルは参加することとなった。
場所は天空城だ。百人を超える王達は皆、初めて訪れる天空の城を物珍しげに見渡した。「柱の間」と呼ばれる広間に一同は集められる。その名の通り、四方を古代様式の荘厳な柱に囲まれた広間だった。その末席にルークスは座る。
ほどなくして側近等と共に野薔薇王が現れた。彼女を初めて見た者達はその少女のような外見に戸惑ったようで、幾人かは隠しもせずに息を呑んだ。
四年ぶりに東大陸に彼女は戻ってきた。噂は聞いていた。西大陸における統治が上手く行っているというものだ。
ルークスが彼女に会うのも、四年ぶりのことだった。美しさに磨きがかかったように思える。既に封竜薬の影響はないのだろう。ヒト族だと間違えたことが嘘のように、竜族の中にいる彼女は威光に満ち、ヒトならざる触れがたい美貌を放っていた。
現れた彼女は手短に告げた。
「東大陸及び西大陸を、竜族の一切の支配から解放いたします。本日以降、聖竜帝国は消え去ります。皆様は、もう誰にも縛られることはありません」
王達は戸惑いざわめくが、それだけ伝えると彼女は奥へと引っ込んでしまい、残されたフローダストを初めとする側近等が王等の相手をする。
そうか、とルークスは思った。
フィオナはようやくルイ・ベルトールに誓った平和を作り上げることができたのだ。
憎しみを重ねる時代は過ぎ去り、血で血を洗う終わらない戦争を終わらせることができたと、少なくとも彼女はそう信じることができた。
(良かった)
と、ルークスは思う。本当に良かったと、心の底から思った。
ルイが彼女に深く深く打ち込んだ呪いの楔は、もう引き抜かれたということだろうか。心の中にはもう、過去の悔恨もルークスのことも無いのかも知れない。
フィオナがこちらを見ることは、一度も無かった。
◇◆◇
「同族以外にはなんの根回しもない突然で一方的な報告でしたから、皆混乱していましたが納得はしていましたよ」
自室に戻ったフィオナの元をフローダストが訪れたのは、会議の場を去ってから数時間後のことだった。太陽は大きく西に傾き、徐々に世界を暗くしていく。
長い間椅子に座り考え事をしていたフィオナは、彼の訪問に立ち上がった。
「ありがとうございます。任せてしまってごめんなさい」
「いいえ、好きでやっていることですから。それに貴女は口下手ですからね」
それは正しいが、率直な物言いにやや閉口した。
一年間でフローダストの髪も肩ほどまで伸びた。レオンローズの事件の痕跡も消えつつある。
「泊まりの客の宿泊地は地上の街に用意をしました。禁足地以外の城と庭を解放していますから、今は散策している者もおりますが深夜までには帰します」
はい、とフィオナが頷くと、唐突にフローダストは言った。
「会わなくて良かったのですか」
誰に、とは言わなかったが誰を言っているのかは明白だった。
一年前、フィオナに盛られていた封竜薬の効果は既にない。フィオナは竜に自在になることができたし、本能の制御も無かった。故に番を見れば、それがそうだとすぐに分かるはずだった。
フィオナは今なお恐ろしかった。ルークスの姿を見てしまえば、自分が彼をルイのように愛してしまうのではないかということが。
そうしてフィオナは、彼が柱の間にいる姿を見る前に、彼が自分の番であると直感的に分かってしまった。――雷に打たれたような――としか形容できない抑えがたい衝動が、フィオナの体を包みこんだ。
ルイに初めて会った時と同じだ。懐かしさとともに、同時に悲しみが襲った。ルイではない人にも、自分の感情は向かってしまうのだ。フィオナは彼に目を向けることがどうしてもできなかった。
そのようなことを口にすることもできなかった。極力感情を抑えながらフィオナは言った。
「彼はルイ・ベルトールではありません。だからこれで良いのだと思います。会うことも二度とありません」
フィオナがすべきことは、遠くから彼の幸福を願うことだ。もう二度と、番を得たくはない。自分が感じている衝動ほど、彼はフィオナに対して感情はないはずだ。想いの通じない番を側に置くような、古の同族のようにはなりたくはない。
それ以上にやはり、ルイを愛している。他の者に同様の想いを向けるなんてあってはならなかった。
それでいい、と自分を納得させていた。
そうですか、とフローダストは言った。彼はフィオナの考えを常に尊重し従ってくれる。考えが異なる時も往々にしてあるが、それでも結局は納得してくれていた。
だが彼は、フィオナの顔を見つめたまま黙り込む。
彼との付き合いは長い。ほぼ毎日のように顔を合わせている。表情を見れば、何か物を言いたいのだということは分かった。
彼も同じだ。フィオナが彼に言いたいことがあるということに気づいた、ということに気づいていた。
フローダストは視線を落とし、絞り出すように言葉を口にした。
「……私は貴女に、黙っていたことがあります」
まるで罪人が懺悔する時のような重々しい口調だった。何を――と問う前に、彼は視線をフィオナに戻した。同じ色の瞳が、フィオナを試すように見つめ返していた。
彼は、迷いを振り払うように一息に言った。
「三百年前の話です。貴女はシンディシアの元を訪れたでしょう。その日、遠目でしたが私も彼女を見ました。そうしてひと目見た瞬間、すぐに分かりました。彼女が私の番であることが」
突然の告白に、フィオナは呼吸も忘れてしまった。何を言われているのか理解できずに、目を見開いたままフローダストを見ることしかできない。彼は覚悟を決めたかのように、フィオナから視線を一切逸らすことなく言葉を続ける。
「彼女の引力に魂が惹きつけられて、頭がおかしくなりそうでした」
彼の目が瞬間的に虚ろになったように見えた。過去を思い出したのかもしれない。
フィオナもそうだ。スレイヤ、と名乗っていた彼女が暮らしていた屋敷を初めて訪れた日の情景がありありと蘇る。思えばあの時のフローダストの態度は少しおかしかった。
どうして気づくことができなかったのだろう。血の繋がる大切な従兄である彼の、番がその場にいたということに。
シンディシアがインエットの地に城を築いてから没するまで、フローダストは度々フィオナの側を離れ、シンディシアを手伝っていた。彼女が亡くなった際、しばらくはひどく憔悴していたのも覚えている。かけがえのない友人の死に、フィオナも深い悲しみを感じていた。だから彼もそうだと考えていた。だが、フィオナが感じている以上の痛みを、彼は感じていたということなのか。
いつも自分はそうだ、とフィオナは思った。自分のことばかりに集中している。当時のフィオナが考えていたことは、ルイの遺志を継ぎ、東大陸を統一し平和を築く、そればかりだった。そうしてその達成のためにノットとフローダストが共に来てくれるということを、信じて疑っていなかった。
愚かにも――。
「わたしは、わたしは貴方の人生を、犠牲に――?」
気づくべきだった。彼にも愛する者と家族になる幸福がありえたということに。フィオナがそうではない生き方を強いてしまったということに。
今更ながら罪の重さに慄いた。フィオナは敵も味方も、多くの者の人生を壊した。
だがフローダストは首を振る。
「貴女がそう思ってしまうだろうから、今まで口にしませんでした。しかし犠牲とは少しも思いません。貴女は私に、人生そのものをくださったのですよ。貴女に出会わなければ、私は自分の人生を呪っていると気づかぬまま、死ぬまで呪い続けていたでしょうから」
彼の中ではもうそれは、噛み砕き飲み込み消化した過去であるかのようだ。彼は穏やかな表情に変わっていた。
「――ミエラが私の番であると知った時、真っ先に思ったのはルークスの魂についてでした。シンディシアは兄を慕っていました。もし彼女が生まれ変わるのなら、再び彼の妹になることを、望んだのではないのかと思いました。だからルークスは、ルイ・ベルトールなのではないかと出会った当時から思っていました。あり得ない、そんなはずはないと何度否定しても、頭のどこかでその思いは拭い去れませんでした。
貴女が彼を使者として指名した時に、だから真っ先に貴女もそれを知っているのだろうと感じました。そうして迷っておられるのだろうということも」
フィオナは混乱していた。ルイとシンディシアと、ルークスとミエラが順に頭を駆け巡る。似ているところと、似ても似つかないところが、彼等にはある。同じであって、全く異なる。
震える声でフィオナは言った。
「三百年前、貴方は自分の番が誰か知っていながら、なぜ彼女が他の男性と添い遂げる姿を見守ることができたのですか……?」
「当時は情勢がまだ不安定でした。私の側に置いて、彼女を争いに巻き込みたくありませんでした。優しい伴侶の側で、穏やかで平和な人生を歩んでほしかった。それこそが私の幸福でありました」
だが言った後で、フローダストは否定した。
「いいえ、それは綺麗事ですね」
少しの間を置いて、一つ一つ考えるようにフローダストは言葉を続ける。
「……シンディシアを痛めつけたのは他ならぬ竜族でした。彼女は私を友として認めてくれてはいましたが、それでも私を見る彼女の瞳の奥底には、常に怯えが潜んでいた。私はその瞳を直視することができなかった。私も結局、あの傲慢で強欲な祖父の血を引く竜人です。彼女に拒否されては、醜く狂ってしまうだろうという確信がありました。
彼女は竜族への恐怖を誠実と高潔で覆い隠して、私を友としてくれた。彼女の死を看取りました。幸せな人生だったと言っていました。……それだけで、私には十分でした」
シンディシアは、あの哀れで誰よりも強く優しいフィオナの友人は、自分がフローダストの番であるなどと夢にも思わなかっただろう。それだけ上手く彼は隠していたのだろうし、彼女は彼女自身の手で、誰かに惑わされることもなく自分の幸せを掴み取ったのだ。
「ミエラと彼女を同一視するつもりはありません。ですが私は、今度こそあの魂と添い遂げたいのです。持てる限りの愛情を彼女にあますことなく注ぎたい。シンディシアもミエラも、同じように愛しています。彼女達が愛おしくてたまりません。どちらも大切な、私の番です。そう思っている感情に、矛盾も偽りも、罪悪もありません」
フィオナは何も言うことができなかった。何を言っても間違っているような気がしていた。彼の覚悟を今になって知るとは思いもよらなかった。
そんなフィオナを見て、フローダストは口元を柔らかく緩める。
「しかし、こうも連続して我等王族の番がヒト族であったのはなぜだろうと、長い間考えていました」
「……女神様の気まぐれか意地悪でしょう」
フィオナはそれだけをやっと答えた。気まぐれか意地悪でなければ単なる偶然に過ぎない。
だがフローダストはまたしても否定した。西日を受けて光る彼の表情は明るい。
「そうではないと思います。いい加減に憎しみを終わらせろと、そういう風に女神に言われているように思えてならないんです。だから憎み合う種族から、女神は番同士を選び抜いた」
白銀から始まり、フィオナやフローダストにもヒト族の番が現れた。ヒト族は他の種族に比べ知能が高く仲間意識も強い。竜族は彼等を恐れ滅ぼし支配下に置き、彼等は竜族を憎んだ。過去の世界において両種族の憎しみは驚くほど強かった。
――だとすると憎しみを乗り越えるのに、わたし達は三百年もかかってしまった。
愚かなことだ。他種族で食い合い、同種族でも食い合った。
ですが、とフローダストは言う。
「私達は乗り越えました。もう憎悪は我々を縛るものではありません。だからルークスとミエラが生まれてきた。幸せになることを、ようやく我々は神に許された。いい加減に幸せになっても良いと言われているのではないのでしょうか」
フィオナは数度目を瞬いた。突然の告白から始まり、そんな結論に帰着するとは思っていなかった。まるで目まぐるしく展開していく手品を見ているようだ。呆気に取られているフィオナが反応する前に、フローダストが再び言った。
「ルークスが貴女に伝言を。明日、初めて会った場所で待つとのことです」
それを聞いて、フィオナの体はびくりと震えた。
「行けというのですか」
眉を顰めるフィオナに向かい、フローダストはいたずらを思いついた子供のように含みのある笑みを浮かべた。
「行くも行かぬも貴女次第ですよ。――それでは、私は残りの雑務がございますので」
言いながら、彼は部屋を出て扉をパタリと閉めた。
静寂が部屋に満ちる。無意識に、フィオナは窓の外を見た。
初めて会った場所――。
それは海だ。夕日の海で、フィオナはルークスを見つけた。




