最終話 永劫の愛は今ここに
目の前に跪く美しい人間を、フィオナは見下ろしていた。
彼は美しかった。番だからそう思うのではない。今を生きる者の生命の強さを、そのまま体現したかのような青年だった。彼は常に前を見る。生きる方向を見つめている。未来の光を信じている。
眩しくて、眩しくて、直視ができない。それでもフィオナは彼を見つめ、堪らなくなり同じように床にしゃがみ込んだ。それから震える声で返事をした。
「番の寿命をあわせる術を、結局わたしは見つけられませんでした。もし、一緒に生きたとしても、貴方はわたしよりずっと早く死ぬ。またわたしは一人になります。もしも愛してしまったら……」
もう既に、ルークスはフィオナにとって引き返すことができないほどかけがえのない存在ではあった。愛する人の生まれ変わりであり、大好きな友人の兄であり、そうして自身の友人になると言ってくれた人だったからだ。
それでもフィオナは言った。
「……愛してしまったら、別れはそれだけ辛くなります」
何度も何度も、そんな人たちの死を見送った。別れは慣れるということがなく、失う度に世界の一部が壊れていくようだった。
「三百年前に得た友人たちを、わたしは全員失ってしまいました。志半ばで死んだ者も数多くいます。その度に、心が引き裂かれました。……もう二度とあんな思いはしたくないんです」
ルークスは顔を上げた。フィオナと彼は睦まじい獣同士のように、とても近い場所で見つめ合っていた。
ふいにフィオナの目から涙があふれた。ルークスはそれを見つめている。
「ルイ・ベルトールを愛していました」
「うん」
「心の底から、愛していました」
「うん」
と、ルークスはまた頷いた。
「番だからじゃありません。彼という存在が、わたしにとっては世界そのものだったんです。……彼こそが、わたしの全てだったんです」
「うん」
「これからも愛しています」
フィオナは嗚咽を漏らした。
「これからも、わたしには彼だけなんです」
涙が流れ、色褪せた絨毯を濃く染める。
「ルイ様だけを愛しています。ごめんなさい――ごめんなさい……」
ぼたぼたと涙が落ち続ける。
彼を愛して失った。世界を知って失った。その喪失ごと、彼を愛している。彼だけを愛している。
長い沈黙があった。やがて、うん、と頷くルークスの声が聞こえた。
「うん――うん。大丈夫」
大丈夫だよ、とルークスはまた言って、フィオナの背を優しくさすった。兄が妹を慰めるような、親愛の込もった仕草だった。だがそれ以上の感情を、彼はそこに込めなかった。
「大丈夫だから、泣かないでくれ。どうか泣かないで――。大丈夫、泣く必要なんてないんだ。謝ることじゃない。悲しいことなんてなにもないだろ? 誰かを愛することってさ、すごく幸せだと思うんだ。
……なんとなく、そうかなって思ってた。貴女と彼の間の絆は、番なんてもんじゃ説明できないほど強かったから」
そう言って、ルークスは少し淋しげに笑った。
「……やっぱり彼は、世界で一番の幸せ者だな」
それがフィオナの結論ごと慈しむような笑みに思えて、胸がぎゅっと締め付けられた。ルークスは手をまだフィオナの背に置いたまま、言い聞かせるように言った。
「俺さ、長生きするよ。どう死ぬのかなんて分からないけど、この人生は生き抜いて――そうして死んだら、また貴女の側に生まれ変わる。また死んでも、また、生まれてくるから。その誰かを、いつか貴女が愛せるようにさ。だから、フィオナには長生きしてほしい。生きて、生きて、生き抜いてほしい。……生きることは無意味じゃない。生きることに意味は必ずあると、今は思う。
……ルイ・ベルトールを忘れなくていい。忘れてほしいなんてもう二度と望まない。その代わり、貴女の人生が続く限り覚えていてくれ、ルイ・ベルトールのことも、それでもし気が向いたらルークス・ファルトルのこともさ。それでいいよ」
また微笑んでから、両手でフィオナの涙を拭い、彼は立ち上がる。
そうして今までの会話を振り払うかのように明るく言った。
「そろそろ行くよ。従者を少し先の街で待たせているから。貴女は――」
感情を堪えて、フィオナも微笑んだ。
「わたしは、もう少しだけここにいます」
そう、とルークスは言って、立ち去ろうとする。だが入口の前で立ち止まると、こちらを振り返った。
「もし――……」
言いかけて、言葉を切った。ルークスは、己の中に疼く痛みに気づいていた。だがそれを彼女にぶつけてはならないということも分かっていた。
――頼むからそんなに悲しそうに笑わないでくれ。
彼女が悲しむ度に、ルークスの胸は張り裂けそうになった。幸せに笑っていてほしいと、心の底から切望する相手だ。恐らくは生まれてくる前から愛していて、そうして死ぬまで愛し続ける相手だった。
願わくば、ルイ・ベルトールがかけた愛の呪いを解いてやりたかった。だが、そうではないのだと今になってようやく思えた。解けないままでも彼女は美しい。彼女の抱える傷が今の彼女を形作っているのだから、傷があってこそ完璧なのだ。
ルークスは密かに決意した。
むせ返るくらいの愛を持って、俺が死ぬまで彼女の側にいよう。そうとも、死んだってまた生まれ変わる。誰になったって何回だって彼女を見つけて、何度だって側に行く。そうだ、きっと次はもっと長寿種に生まれてこよう。――それで最後は彼女の死を看取って、そうして今度は彼女が生まれ変わるのをずっと待っていよう。
だからもう、何も心配しなくて良い。なんの憂いもないんだ。
だからそう、どうか残りの人生は、幸福に笑っていてほしい。たとえ側に俺がいなかったとしても。
だが想いの全てを飲み込んで、ルークスはこれだけを言った。
「もし、俺に会いたくなったら海へ来てくれ。俺はいつだってそこにいる」
それがルークスの精一杯だった。驚いたような顔をするフィオナに向かって、ルークスは肩をすくめてみせた。
「言っただろ、俺はフィオナの友達だから」
どんな関係だって、彼女のことが大切だ。それだけを言うと、ルークスは彼女の側を離れ、階段を降りていった。
来た時と同じように、ルークスの足音が遠ざかっていく。ルークスが拭った流れた涙の跡を今度は自分の手で拭った。
そうしてもう一度、窓辺に座って外を見た。外の世界を、眺めてみた。
幼い頃もこうして窓の外を眺めては、知らない世界に思いを馳せていた。
「……ねえルミナシウス」
十六歳の頃のフィオナは、度々そうしてルミナシウスに語りかけていた。
ルミナシウスは今や母と、彼と彼の名だった。彼等の名はフィオナの中で一つの存在にまとまっていく。それは温かな愛の形をしていた。
今再び、フィオナはルミナシウスに語りかける。
「ねえルミナシウス。幸せなおとぎ話とは随分違っていたけれど、世界はとても美しかった。あなたがわたしに見せてくれたんだわ――」
伝えることのできなかった言葉が山程ある。
飲み込んでしまった思いが今もなお燻っている。
傷は塞がらないまま、いつしか膿みを孕んでしまった。
近くで雷鳴が轟いて、間もなく雨が降り注いだ。雨雲がここまで来たのだろう。
窓の外に手を伸ばし雨の雫に触れてみた。いとも容易く触れられた。かつてあった塔の結界はない。フィオナは自由だった。
とてもとても長い間、フィオナはそうしていた。
もっと見つめていたかった。もっと聞いていたかった。もっと側にいたかった。もっと触れていたかった。
失ったものを思う度に心の傷は痛み続ける。空いた穴は他のものでは埋まらない。
だがそれでいいと、そう思えた。
無理に塞ぐ必要はない。その傷こそ、自分と彼等が生きた証なのだから。
「ねえルミナシウス。あなたの愛の中に、わたしはずっと生きていたのね」
フィオナには分かっていた。母が生まれ変わらず地上に留まることを選んだのも、ルイが命を失わざるを得なかったことも、ルークスがフィオナの想いを汲み身を引いたことも、その理由が分かっていた。
間違いなく愛していたし、愛されていた。間違いなく愛されているし、愛している。
これからは受け取った以上の愛を、この世界に与えたい。
「うん――うん。大丈夫」
ルークスが言った言葉をフィオナも口にした。
もう何も心配はない。
もう何も憂いてはない。
わたしの人生は大丈夫。
傷んでも、その傷口さえも丸ごと愛している。
フィオナは雨粒に触れ続けた。強い雫が、指に何度も打ち付ける。
フィオナは自由だった。
もうどこにも、誰にも閉じ込められてはいなかった。
フィオナはどこまでも自由だった。
行きたい時にどこにでも行くし、会いたい人には誰にだって会いに行ける。
近いうちに、海へ行こう。
そう遠くないうちに、必ず行こう。
こんな別れをしてすぐに会いに行ったら、彼はどんな顔をするだろう。きっと少し呆れて、でも結局は笑うだろう。
溢れるほどの話がしたい。過去と未来の話がしたい。彼との関係がどうなるのかなんて分からないし、もしかするとどうにもならないかもしれないけれど、それでもたくさん話がしたい。
雨に触りながら、フィオナは自然と微笑んでいた。
大切な人達のことを思い、胸の内から笑みがあふれた。もう二度と会えない人達のことと、今も側にいてくれる人達のことを考えて、この上ない幸福に包まれた。
生きることは喜びだけではない。同じだけの悲しみも用意されている。幸福も不幸も繰り返し、しかし全てが今に繋がっていた。
子供の頃、憧れた物語の結末はこうだった。
“そうしてお姫様と王子様は幸せに暮らしました”
だがフィオナの物語はまだ終わっていない。生きている限り結末は無限に書き換わるのだから。幸せな終わりか不幸せな終わりかさえも、今はまだ分からない。
それでもこの瞬間、フィオナの魂は幸福の中にあった。
やがて雨が過ぎ去り、雲が鮮やかな夕日に染め上げられる。霧は晴れ、広大な森を太陽が照らしていた。巣へと戻る鳥たちが空を気ままに飛んでいく。
どんな一日だったとしても世界は実に正確で、また夜が来て、朝が来る。そこに終わりはないのだろう。
お姫様は王子様に出会えて幸せになれたのだろうか。めでたしめでたしで終わるその先も、ずっと幸福が続いたのだろうか。答えは分かっている。
暮れていく空に向かって、そっとフィオナは囁いた。
「ルイ様、わたしはとても幸せでした」
また一日が終わる。
この世界の、なんと美しいことだろう。目が眩むほどの夕日がフィオナの瞳に反射して、映る世界を輝かせた。
永劫の今は、まさしくこの瞬間に違いない。
愛は今、フィオナの心に確かに焼き付けられていた。
〈おしまい〉
最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました!
このお話を書くことができて良かったです。読んでくださった方には感謝しかありません。本当に本当にありがとうございました。
以下、長いあとがきです。読まなくて大丈夫です! 恥ずかしいので本当に読まなくて大丈夫です。
このお話を思いついたのは一番初めにコロナになった時のことで、当時は確か濃厚接触者の待機期間+発症後の待機期間でひと月近く家に籠もらなくてはならない時であり、非常に暇をしてしまい、その時に、二つほど物語を思いつきました。一つは「悪女矯正計画」で、もう一つはこのお話でした。
悪女〜の方はすんなり書けたのですが、こちらの物語は何度か挑戦したものの、冒頭で挫折し書けないということが長い間続いていました。じゃあこの物語の要素も入れて書きやすい話を書いてみようと思って書いたのが「イリス、今度はあなたの味方」というお話で、ロゼ=グラスという固有名詞は本当はこの物語で考えていたものだし、イリス〜の話の骨格はこの話の流用でした。それで一度は満足したのですが、やはりどうしてもこの物語を書きたくなり、書きたくなったタイミングで、「竜人」「番」という概念を知り、付け足してみたところ、なんとか動き出した物語でありました。(とはいえ一章あたりはまだ固まりきっていないものも多く、何度も修正してしまいました……)
書きたかったのは、歴史の教科書の中で一文だけ触れられているような些細な出来事に実際はどんな物語があったのだろうというところの掘り下げでした。後は大きなものに挑んで負けて死ぬ人達の話が書きたかったです。それから人間以外の種族を出す練習をしてみました。頑張ってみましたがちょっと気恥ずかしさがありました。
本当の最初は、一、二章までの話しか考えていませんでした。ルイが死んで終わりです。でも彼等の話がその後の時代にどんな影響を与えたのかという部分も少し書いてみたくて三章を作りました。なので三章は長いエピローグみたいなイメージでした。作者としては全部の章がお気に入りです。ルイよりも実はルークスが好きです。でも全部のキャラクターの中での一番のお気に入りはギルバートでした。さらにどうでも良い話ですけれど、ギルバートはトリデシュタイン公国の話辺りで裏切る予定だったのですが、書いているうちに彼を気に入ってしまい最後まで味方になってしまいました。
ルークスとフィオナの絡ませ方も非常に迷い、最初は全く絡ませないようにしようかなとも思っていました。でも主役同士なので、もう少し絡ませようと思って今の形にしてみました。
終わり方ももう少しハッピーな感じのエンドにしようと考えていて、実は最終話は先に書いていたのですが、本編の方を書いていくうちにちょっとしんみり系の方が似合うかなと思い最終話手前を最終話にしてみました。中々しっくりきたように思います。
そんな感じで、数年前から考えていた話を散々迷いながらなんとか最後まで書くことできて大変満足しております。皆様のおかげです。このお話が日常のちょっとした楽しみになっていたら幸いです。
では、あとがきまでお読みいただき本当にありがとうございました!
今年はまた別の話を書いていきたいと考えておりますので、その時に再びお会いできたらさらに嬉しいです!




