第12話 再会
交通事故だった。早朝から俺が病院に呼ばれている間の事故。散歩に出た先、信号のない十字路で転んだ花音は、また頭が混乱して立ち上がり方が分からなくなってしまったらしい。警察に見せてもらったドライブレコーダーにはパニックになって車を見つめる花音が映っていた。
車の運転手がスマホを見ながら運転していなければ、スピードを出し過ぎていなければ、周りの誰かが助けてくれていたら、花音がすぐに立ち上がり道の端に避けていたら、俺が一緒にいたら……いくらでもいつまでも花音が助かったかもしれない可能性が頭に浮かぶ。
そんな妄想から逃げるため、やり場のない怒りと悲しみをぶつけるため、俺は体力の限界以上に仕事を入れた。余計なことを考えなくていいように。
そして三年という短い時間の後、心不全で倒れ病院で息を引き取った。
俺は花音を残して死んだのではなく、花音の後を追うようにして死んだのだ。
「それが気が掛かりだったのか……」
自分の人生を全て振り返って、やっと自分の未練を理解した。
でもだからと言って、どうしたらいいというんだ。
「なぁ、天国に留まれるのは、せいぜい一年なんだよな?」
最初に言われたことを確認する。期間を超えれば、魂は転生できずに消滅するか無意味なものになるか……さもなくば自ら地獄に落ちる。セイにはそう言われた。
俺みたいなダメな男が天国にいるのだ。花音も天国に来ただろう。でも、花音が死んだのは俺より三年も前の話だ。花音に未練があったとしても、もういない。会えない。
「おいセイ、どうなん――」
静かなテーブルに痺れを切らして顔を上げる。しかし、そこにセイはいなかった。いつの間にかテレビも消えてテーブルには、俺と……飲みかけのコーヒーカップがひとつあるだけだった。
「そうか、もうセイの仕事は済んだか。あとは……俺が納得するだけか……」
自分の未練は自分で解決しなければいけない。ここは自分で自分を裁く場所である。そんな風なことも言っていたな。
だけど……今の気持ちをどう整理したらいいのかわからない。
些細なことだ。愛していると何度も伝えた。ただ「好き」だと言っていないだけで。でもこれは言い訳だ。花音はきっと、青春がしたかったのだ。もっと俺と二人だけで過ごす時間が欲しかったのだ。
18で就職なんて昔はむしろ多数派だった。10代で出産だって。しかし、一度家を飛び出して身元を隠していたせいで、その間に少し友人とは疎遠になってしまった。高校卒業間際に学校を休んでいたこともある。花音はその頃のことも心の中で引きずっていたかもしれない。
俺も、仕事に逃げたと言っても完全に家庭を蔑ろにしていたわけではない……はずだ。ずっと仲睦まじい夫婦だったとは言えないだろうが花音は幸せだったと信じたい。
………………信じたい、か。
そう言えば花音に俺と結婚して幸せだったか聞いたことなんてなかったな。花音はどうせ聞いても頷くに決まっている。そう決めつけて本心を確かめようとしなかった。
嘘でもいい、花音の口から花音の声で、幸せだったと言ってもらえばよかった。それなのに、二人で話した最後の言葉が青春の悔いに近いものにさせてしまった。
俺は……諦めていなかっただろうか。花音が認知症になって、どうせ何をしても何を言ってもすぐ忘れてしまう。花音は気遣い屋で、俺を傷つけることは言わない。記憶を手繰っている様でも本心を言っているか分からない。
互いに気持ちを確認しないまま、自分勝手な善意を押し付け合うだけの関係になっていなかっただろうか。長年連れ添って、お互い分かった気になって……俺は花音をどこまで理解してやれていただろう。
花音の気持ちは花音にしか分からない。教えてもらわなければ俺には分からない。でももう花音には会えない。こんな気持ちをどうすればいいというんだ。
答えが出ないまま、俺はずっとコーヒーカップを握ったまま、一人になったファミレスのテーブルでうつむいていた……。
「いつまでそうしているつもりですか?」
一滴も残らずコーヒーは蒸発し、カップに茶色い年輪が生まれた頃、頭の上から声が降って来た。
セイか、今までどこに行っていたんだ。お前は天国の案内人じゃないのか。どうして答えの出ない未練から救う手助けをしてくれない。気力を失った声で文句を言いたくなる。
しかし顔が持ち上がらなかった。
セイは、こんな優しい老いた女の声をしていただろうか……。
「まだわたしの声が届かない?」
勢いよく顔を上げる。
「なんで……ここに……」
花音だ。記憶の中と同じく、優しく微笑む花音がいた。死ぬ直前の、怪我をしてからそれまで以上にとろんとしたぼんやりした笑顔ではなく、俺の顔をしっかりと認識して真っすぐに見守ってくれる、そんな笑顔があった。
気づけばコーヒーカップを握る自分の手も、死ぬ前と同じでシワの深い痩せて骨の浮き上がったものになっていた。
「これは、幻か……?」
「どう思います?」
どうでもいいか、これが夢でも幻でも。
どの道、俺は死んでいるのだ。ただ目の前に花音がいるなら、言うべきことだけはハッキリしている。
「花音……ずっと愛していた……ずっと、好きだったよ」
「やっと、言ってくれた……」
花音の声を聴いていると、目から熱いものが零れそうになる。それを誤魔化そうとして、今度は溜め込んでいたものが口から漏れてしまう。
「……お前は、俺と一緒になって幸せだったか。俺はお前をいいように振り回して不幸にしなかったか。俺と結婚したことを後悔しなかったか……」
「そんな矢継ぎ早に言わなくても、わたしは幸せでした。それに、幸助さんのこともちゃーんと好きでしたよ、出会った時からずっと」
「……そう、か……そうか……」
「ええ、そうですよ」
俺は花音を幸せてにできていたか……。
手の中で震えるカップの茶色い年輪には、一本にじんだ線が入り、底には薄いコーヒーが少しだけ残っていた。




