第11話 健忘
俺と花音が55歳の時だった。事件が起こったのは……。
仕事から帰ると花音が頭から血を流して階段の下に倒れていた。足を滑らせて頭を打ったのだとすぐに分かった。救急車を呼び、傷の処置を終えて担当の医師と話をする。命に別状はないと言われ一旦は安心する。だが――
「脳挫傷で出血に圧迫されていた時間が長かったため……血は抜きましたが意識に混乱が見られます……」
「なんだ、はっきり言ってくれ」
「今後出血が完全に収まるかに関係なく、障害が残るかもしれません……」
花音の手術をしてくれた知り合いの医師につい強く言ってしまう。なんとなく予想はしていた。出血して意識を失うほど頭を強く打ちつけて何時間も放置されていた。脳の内部で血の巡りが悪い虚血部分が生まれ、運動機能や記憶に障害が残るかもしれない。
はっきりと脳外科医に言われたのには堪えた。もしかしたらという不安がどんどんと大きくなっていく。なまじ知識がある分、悪い予感ばかりが肥大化していく。
「あっ……こうすえくん……けて、くれたんだぁ」
花音とまともに話せたのは二日後になった。特にひどく打ちつけた頭の左半分、上の方は髪を剃られ、まだガーゼが貼られている。それでも、痛々しい姿になっても健気に笑みを絶やさない花音の様子に救われた気分になる。
「大丈夫なのか?どこか痛まないか?」
「せんせ、が、しゃべえるなら、したほうがいいって」
「そうか……」
頭だと専門医でも症状を断言することは難しい。無理は禁物でもリハビリは早く始められた方がいい。医者は万能なんかじゃない。手術で治せる怪我には限りがある。自分が医者として働いて嫌というほどわかっている。
それでも、花音のたどたどしい話し方にイラ立ちを覚える。もっとできることはないのか。仕事に手がつかなくなる。
「――お父さん、気づいた?」
それから二週間後、お見舞いを終えた風花が家まで訪ねてきた。いつもと違う様子で……。
「まだお父さんのこと「幸助くん」って……」
「それは……確かに昔の呼び方だが一時的に混乱しているだけで」
「……お母さん、またスプーンの持ち方忘れてたよ。リハビリの予定を聞いても時計が読めないみたいだった」
そう言って、風花は小さな子供が食事するようにこぶしでスプーンを握る仕草をする。花音のリハビリはもう始まっている。看護師に支えられながらなら、歩行器を使いよたよたと自分でトイレに行けるくらいには回復している。
だけどやはり、記憶の方が上手くいかない。
「ねえ、お父さん。私に病院ちょうだいよ」
「……なに?」
「お金には困ってないでしょ。お手伝いさん雇うより、もう早めにリタイアしてお母さんの面倒みなよ。名前は残しといてあげるから」
「俺はまだ55だぞ。それにお前だって子供が小学校に上がったばかりだろう」
「あいつら私と同じで手はかかんないから大丈夫。いざとなったら旦那に主夫やってもらうし」
花音はからからと笑って言う。俺が医大に行く前にできた子だと言っても花音はまだ34歳。病院を渡してしまって大丈夫か聞かれれば不安だと即答する。
それに、加齢から来る脳の萎縮などを原因にした認知症は、症状が出て半年から一年以内と気づいてすぐに対応すればそれなりの改善が期待できるが、怪我での後遺症による記憶障害は無理にリハビリをしても効果があるとは限らない。
「もっと言うなら、このままふぬけてられると指揮が下がるって他の医者も」
しかし最後に、この二週間どれだけ自分が呆けていたか説明されて俺は折れた。一体いつ事故を起こすか、周りの仕事を増やす老人はいなくても結構だと。昔から俺に対する当たりの強い子だったが本当に言う様になった。
病院は風花に任せ、俺はたまに顔を出す程度になった。そして退院した花音と共に少し早い老後を過ごすことにした。
俺が仕事で忙しく花音を家に閉じ込めてしまった分、できるだけ色んな場所に連れて行った。電車の旅では、毎回花音が「またバイクの後ろになりたい」なんて言うからそんな危ないことはできないと俺が注意するのがお約束だった。
俺は一気に白髪が増えた。花音は中々剃った部分の髪が戻らないから外ではずっと帽子を被っていたから、見た目は完全に晩年のカップルだ。でも気持ちはどんどん若い頃と同じように軽くなっていった。
一緒に買い物に行き、それまでしなかった料理を一緒にするようになった。慣れたはずの調理の仕方を忘れてしまうようになったことを花音に意識させないため、俺はわがままと言うフリをして、それまで食べた事のない外国の料理なんかをたくさん作った。
花音は昔の話をするようになった。中でも二人が出会った高校時代、まだ珍しいカセットウォークマンで俺が聞いていた曲のことを度々聞いてきた。
亡くなった親父の部屋に残されていた兄貴のレコード、流石にもう蓄音機なんて捨ててしまっていたからタイトルだけ見てCDを集めた。スピーカーで再生せず、いつかの学校の屋上でしたみたいに、イヤホンを二人で分けて聞いた。
俺が仕事の第一線から引いたと知ると、昔の仲間が酒を持って遊びに来るようになった。深酒は脳の萎縮を早めるから花音に勧めるなと言って不良だった頃みたくケンカになった。
ある日、もう布団に入り寝る直前のこと、花音がこれまで聞いたことのない質問をしてきた。
「幸助くんは、わたしのこと好きだった?」
「なんだ急に」
「好きだった?」
重ねて聞いてくる。こんな年になっても意地っ張りが直らない俺は、寝返りを打ち背中を向けて答える。
「じゃなきゃ何十年も一緒にいないだろ」
「好き?」
「……だから愛してるって、昔から何度も言ってるだろ」
「好きかって聞いてるんだけど」
最近の花音は、こういう同じ質問を繰り返すことが増えていた。怪我で記憶障害が出てから三年が経ち、認知症は徐々に悪化していた。
俺は眠気に負けて適当に相槌を打つだけになる。
「幸助くんは、いつも気を張って意地を張って大人ぶってたけど、もっと子供っぽい恋愛もしてたかったなぁ……もっといろんな幸助くんを見たかった……」
そんなことを言って、隣の布団からは静かな寝息が聞こえてきた。
俺は花音の呟きで逆に眠れなくなってしまい、音も光もない暗い部屋で言われたことを思い出そうとする。花音は不満そうに言っていたが……もしかして俺は「好き」という単語を使ったことがないのだろうか。
花音と出会い交際を始めたのは高校の頃、俺は腐っていた。尊敬していた兄貴の死から立ち直れず、暴走と暴力で日々の鬱憤を発散していた。当時は認めなかったけど間違いなくツッパリだった。
当時の不良は、というか俺は他人を突き放していた時期が長かった分、女に「好き」とかそういう言葉を軽々しくいうのに抵抗があった。感情を軽々しく口にするのは女々しい行為だと思っていた。だから多分、高校時代に俺は花音に「好き」だと言っていない可能性がある。その頃で言っていないとすると大人になってからも言っていないような気がする。
花音のことは何度も褒めた。顔も、性格も、仕草も、身体も。
何度も愛し合ったし「愛してる」とは何度も言っている。
だが確かに「好き」とは言っていない。そうだ、俺は花音に一度も「好き」という単語を使ったことがない。
意味は同じようなものだろう。女はどうしてこう些細な違いにこだわるんだ。……でも、花音が望むならそれぐらい言っても良かった思う。もういちいち男らしさなんて意地を張るような年でもないし。
昔の話を好む認知症の花音に、新しい刺激を与える意味でもいいかもしれない。明日は意地を張らず、花音に「好き」だと言ってやろう。どうせまたすぐ忘れてしまうとしても、その度に言ってやろう。
そう心の中で決めて俺も眠りにつく。
だが俺がその言葉を口にすることはなく、翌日、花音は死んだ。




