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ハイブリッド保守宣言 ——「血」を問わない民族主義と、三層構造の国家OS  作者: えいの
第2部:新しい国家OS「三層構造」の提示

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第2部補論:リベラルの「生得的権利」という幻想と、血統不問の同化主義がもたらす真の平等

 前話までにおいて、我々は新しい国家アーキテクチャの基盤として、血統という生物学的な偶然性を完全に排除し、憲法という契約への合意に基づく「レイヤー1(法的国民)」と、日本古来の万物神聖化および歴史的連続性への同化を条件とする「レイヤー2(日本民族)」の二層構造を提示した。国家の主権者たる帰属は、特定の遺伝子を持って生まれたことによって自動的に保証されるものではなく、自らの理知と覚悟によって国家の理念と文化(OS)をインストールするという、極めて能動的かつ後天的な「同化のプロセス」を経て初めて達成される。この「血を問わない同化主義」こそが、多様性を包摂しつつも共同体を完璧に防衛する、唯一にして最強の論理的防波堤であると論じた。

 しかしながら、このシステム設計を提示した瞬間、リベラリズム(自由主義)のイデオロギーに深く浸かった知識人や法学者たちから、極めてヒステリックかつ原理原則を盾にとった猛烈な反発が巻き起こることは容易に想像がつく。彼らの反論の核は、おおむね次のようなものである。「主権や市民権を、後天的な『契約』や『同化』という条件付きの資格に引き下げることは、近代憲法が保障する『基本的人権の生得性(生まれながらにして権利を持つこと)』に対する重大な挑戦である。もし資格が契約と同化によってしか得られないのであれば、日本で生まれた子供たち(日本人の子であれ外国人の子であれ)はどうなるのか。彼らもまた、一定の年齢に達して『同化』を証明するまでは無国籍者として扱われ、権利を剥奪されるというのか。国籍とは出生と同時に無条件に付与される生得的権利であり、条件付きの付与は非人道的な差別である」と。

 このリベラル派の反論は、一見すると人道的で、近代法の精神を忠実に代弁しているかのように響く。しかし、彼らはここで法学における極めて初歩的かつ致命的な「概念の混同」を起こしている。彼らは「保護されるべき生存権(国籍)」と、「国家を運営する主権(市民権)」をごちゃ混ぜにし、すべてを「生得的権利」という一つのブラックボックスに押し込んでいるのである。本補論においては、この二つの概念を冷徹に切り離す「二段階の身分付与」というシステム論を用いて、リベラル派の幻想を完全に解体し、論破しておく。

 第一の致命的な誤謬は、リベラル派が「自然権(Natural Rights)」と「市民権・政治的権利(Civil/Political Rights)」を意図的に混同している点にある。十七世紀の思想家ジョン・ロックが『統治二論』において提唱したように、人間が生まれながらにして持っている自然権とは、「生命、自由、および財産」に対する権利である。国家がいかなる理由があろうとも、正当な法的手続きなしに個人の生命を奪ったり、不当に監禁したりしてはならないのは、この自然権に基づく。

 これを現代の国家システムに翻訳したものが、第一段階の身分たる「保護的国籍(Provisional Nationality)」である。我々の構築するシステムにおいても、日本国民の両親から生まれた子供たちに対しては、無国籍を防止するという国際法上の人道的観点から、出生と同時にこの「保護的国籍」が無条件で付与される。これにより、彼らの生存権は完全に保障され、医療や安全、そして後述する「公教育を無償で受ける権利」が国家から与えられる。リベラル派が危惧する「子供が無国籍者になって保護を失う」という事態は、我々のシステムにおいては一ミリも発生しない。

 しかし、「保護的国籍」を持つことと、「参政権」や「国家からの完全な社会保障(福祉)」を受ける権利を持つことは全く別の次元の論理である。これら国家を運営・維持するための権利は、特定の領土と歴史を共有する人々の集団が、相互の負担(納税や国防の義務)を前提として人為的に創り出した「主権的市民権(Active Citizenship)」と呼ばれるべきものである。フランス革命期の人権宣言が「人間(Homme)と市民(Citoyen)の権利の宣言」と二つの概念を明確に区別して名付けられたのは、まさにこのためである。生存する権利(人間としての保護)は無条件に保障されるべきだが、主権者としての権利(市民権)は、その共同体の維持に貢献するという「義務と契約」を果たす成人にのみ与えられる特権なのである。

 では、日本に生まれた子供たちは、どのようにして第一段階の「保護的国籍(未完成の存在)」から、レイヤー1(法的契約)とレイヤー2(文化的同化)を満たす第二段階の「主権的市民権(真の日本国民)」へと変貌を遂げるのか。それは決して、時間が経てば自然に育つようなものではない。国家が主導する、極めて暴力的で、強制的で、かつ莫大な国家予算を投じた「OSのインストール作業」によって後天的に造り上げられるのである。それこそが「公教育(義務教育)」というシステムの真の姿である。

 フランスの社会学者エミール・デュルケームは『道徳教育論』において、教育の本質とは「生物学的な個人を、社会的な存在へと作り変える強制的なプロセス」であると定義した。国家は、生まれたばかりの白紙の子供たちに対して、約九年間(実質的には高校を含めた十二年間)、教室という閉鎖空間に閉じ込め、国家の共通言語(国語)、国家が歩んできた時間的連続性(歴史)、主権者としての契約のルール(公民)、そして集団行動を通じた「和」の精神を、反復的かつ強制的に叩き込む。掃除の時間を生徒自身に担わせる風習や、運動会での集団行動などは、日本列島という過酷な自然環境においてインフラを維持するための「相互の圧倒的な信頼感ソーシャル・キャピタル」を培うための、極めて実務的なレイヤー2のOSインストール作業なのである。我々は、自らの血を分けた子供たちに対してさえ、無条件で主権を与えているわけではなく、十年以上の過酷な「同化の訓練」を強制した上で、成人時に契約の意志を確認し、ようやく主権的市民権を付与しているのである。

 この冷徹な「二段階の身分付与」の現実を踏まえたとき、リベラル派が主張する「外国から来た移民に対して、文化の同化を強要せず、無条件で主権や完全な権利を付与すべきだ」という多文化主義の論理が、いかに破綻しており、かつ不道徳であるかが完全に明らかとなる。

 国家は、自らの血を分けた子供たちに対してさえ、個人の時間を奪い、多額の税金を投入して義務教育という「強制的な同化プロセス」を課し、日本の歴史や法秩序、万物神聖化のOSを苦労してインストールさせている。それにもかかわらず、外部からやってきた言語も文化も全く異なる外国人に対しては、「同化を要求するのは人権侵害だから」という理由でOSをインストールする義務を免除し、彼ら独自の文化や宗教的価値観を保持したまま、ネイティブと同等の主権(参政権や福祉)を無条件に付与せよと要求する。これは、自国の子供たちには十年間の厳しい修行を強要しておきながら、外から来た余所者には「あなたはフリーパスで良いですよ」と本免許を配るような、ネイティブに対する残酷な「逆差別」である。

 真の意味での「機会の平等」とは、出自や血統に関わらず、この国家の主権者になりたいと願うすべての人間に対して、全く同じ「同化というハードル(OSのインストール義務)」を課すことである。外国籍の者が日本の公教育や試験を通じて歴史と大和心を修め、憲法への宣誓を行う意志があるならば、我々はその者を「100パーセントの日本民族」として包摂し、主権的市民権を付与する。親のDNAが何色であろうと一切問わない。

 逆に言えば、もし外国人が自らのイデオロギーを優先し、日本のOS(歴史的連続性への敬意や言語)のインストールを拒絶した場合、彼らは「保護的国籍(あるいは永住・滞在資格)」として基本的な生存権や私的財産権こそ守られるものの、国家を運営する「主権的市民権」を得ることは永遠にない。それは日本国家のレイシズムによるものではなく、「同化の義務を果たさない者には主権を与えない」という契約不履行に対する当然の帰結である。

 以上により、リベラル派が金科玉条のように掲げる「国籍や市民権の生得的権利(無条件性)」という神話は、生存権と主権の分離によって完全に論破された。日本列島に生まれたから主権者になるのではない。主権者になるための厳しい訓練(教育という同化)を乗り越えたから、主権者になるのである。市民権とは無条件の贈与などではなく、国家の文化と連続性を担うという極めて重い「双務的契約」である。

 しかし、国民(レイヤー1・2)という存在が、どこまでも契約や同化といった「人間の意志(後天的なもの)」によって作られる流動的な構成物である以上、その国家システムの中心には、国民の意志や契約、あるいは多数決といった「人間の理屈」が一切通用しない、絶対的に固定された不変のアンカー(碇)が打ち込まれていなければならない。国民が「血を問わない(普遍的・後天的)」からこそ、国家の中心には「絶対に血を曲げない(特殊的・先天的)」存在が必要となる。次章において、この究極のシステム防衛装置である第三の層(レイヤー3)、「皇統(男系による万世一系)」の存在論的根拠を解き明かす。

【引用文献・資料】

・ジョン・ロック『統治二論』(加藤節訳、岩波文庫、二〇〇七年)

・エミール・デュルケーム『道徳教育論』(麻生誠・山村健訳、明治図書出版、一九六四年)

・ハンナ・アーレント『全体主義の起原3 全体主義』(大久保和郎訳、みすず書房、一九七四年)

・ロジャース・ブルーベイカー『フランスとドイツの国民と市民権』(佐藤成基訳、明石書店、二〇〇五年)

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