↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハイブリッド保守宣言 ——「血」を問わない民族主義と、三層構造の国家OS  作者: えいの
第2部:新しい国家OS「三層構造」の提示

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/14

第6話:外国人を排外せず、かつ共同体を完璧に守る「見えない防波堤」

 前話において、我々は国家の第二層(レイヤー2)たる「文化的民族」の定義から、近代西洋の虚妄である「生物学的な血統(DNA)」を完全に追放した。そして、それに代わる絶対的な基準として、日本列島に数千年にわたり根付いてきた「氏神信仰」と「万物神聖化(八百万の神)」に基づく、時間的・空間的な連続性への帰依、すなわち「文化の同化(OSのインストール)」を提示した。人間は自らの出自や遺伝子を選ぶことはできない。しかし、いかなる理念を内面化し、いかなる文化の継承者となるかは、自らの理知と覚悟によって選択することができる。この「血を問わない同化主義」こそが、多様なルーツを持つ人々を歴史の中で絶えず融合させ、日本という強靭な共同体を築き上げてきた真の「大和心」のダイナミズムである。

 しかしながら、この血統不問の同化主義を提唱した途端、既存の右派(血統主義的保守)からは、パブロフの犬のようなヒステリックな反発が必ず巻き起こる。「血統を条件から外せば、日本は大量の外国人に飲み込まれる」「無条件に移民を受け入れれば、日本の伝統的な形が内部から崩壊する」という恐怖である。彼らのこの恐怖そのものは、国民国家を維持しようとする防衛本能として、あながち間違っているわけではない。実際に、欧州諸国が直面している移民問題の惨状を見れば、無秩序な外国人の流入が国家の治安と共同体をいかに破壊するかは火を見るより明らかである。だが、日本の右派はここで致命的な論理の飛躍と混同を起こしている。「血統を問わない」という命題は、「無条件に誰でも受け入れる(国境をなくす)」というリベラル的結論には、一切、そしていかなる論理的必然性をもっても結びつかないからである。

 むしろ、その逆である。真に日本の文化と連続性を理解し、それを受容すること(同化)を国籍付与や共同体参画の『絶対条件』として厳格に設定すること。これこそが、血統による感情的な排外主義(人種差別)の汚名を着ることなく、国家の安全保障と共同体の防衛を完璧に成し遂げる最強のフィルタリング、すなわち「見えない防波堤」として機能するのである。本章では、この「文化の同化」というハードルがいかにして国家の物理的・精神的基盤を守り抜くのか、その極めて冷徹で実務的なシステム防衛のメカニズムを解き明かす。

 まず、現代の移民政策が陥っている世界的な機能不全の構造を客観的に俯瞰しよう。西洋諸国、とりわけ欧州において長らく主流であった「多文化主義マルチカルチュラリズム」というリベラルな理念は、現在、完全な敗北と破綻の淵にある。多文化主義とは、「ホスト国(受け入れ国)の主流文化への同化を移民に強要することは人権侵害であり、移民が独自の文化、言語、宗教的価値観をそのまま保持した状態で社会にモザイク状に共存することが、多様で豊かな社会を生み出す」という極めてナイーブな幻想であった。

 この理念が現実の物理的社会に何をもたらしたか。移民たちはホスト国の言語や法秩序、歴史的連続性に同化するインセンティブを失い、大都市の郊外に自分たちだけの言語と掟で支配される「並行社会パラレル・ソサエティ」を形成した。そこでは、ホスト国の警察権力さえ及ばないノーゴーゾーン(立ち入り禁止区域)が生まれ、独自の宗教的過激主義や家父長制的な因習(名誉殺人など)が公然と温床化している。ホスト国の国民からすれば、自分たちが血税で維持しているインフラや福祉制度(供給能力)にフリーライド(タダ乗り)しながら、自分たちの歴史や文化には一切の敬意を払わず、さらには治安的脅威となる集団が国内に増殖していく状態である。米国を代表する政治学者サミュエル・ハンティントンは、その晩年の著書『誰が私をつくるのか(Who Are We?)』において、移民がホスト国(米国)のコア文化(アングロ・プロテスタント文化)に同化することを拒否し続ければ、国家は最終的に二つの言語と二つの文化に分裂し、国民としてのアイデンティティは崩壊すると警告したが、その予言は現在、欧米全土で現実のものとなっている。

 さらに、ノーベル経済学賞を受賞したミルトン・フリードマンが「国境の開放(自由な移民)と福祉国家は両立しない」と喝破したように、マクロ経済の観点からも、同化を伴わない移民の大量流入は国家システムを破壊する。福祉国家(再分配のシステム)とは、「我々は同じ共同体に属する同胞である」という強力な連帯感と相互信頼(社会的資本)があって初めて、納税者の合意を得られるものである。言語も文化も共有せず、ホスト国への忠誠心も持たない集団に対して、誰が進んで自らの所得を再分配しようと思うだろうか。米国の政治学者ロバート・D・パットナムは、膨大な実証データに基づき、「多様性の拡大(無秩序な多文化状態)は、短中期的には社会における人々の信頼感を低下させ、ボランティアや地域活動への参加を減らし、人々をタートル(亀)のように自らの殻に引きこもらせる」という残酷な真実を証明した(『孤独なボウリング』等)。文化の同化というプロセスを経ない多様性は、社会の摩擦熱を異常に高め、国家が供給能力を維持するために不可欠な「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)」を根底から焼き尽くしてしまうのである。

 これに対する右派(血統主義的保守)の解決策は、「だから外国人は血統が違うから入れるべきではない」という人種差別的な排斥であった。しかし、このアプローチもまた現実の実務としては完全に破綻している。血統や肌の色といった生得的な属性による差別の肯定は、近代法の基本原則に反するだけでなく、国際社会における国家の道義的正当性を著しく失墜させ、地政学的な孤立を招く。さらには、本当に日本の文化を愛し、日本のために尽くそうとする優秀な人材までも「血が違う」という理不尽な理由で排除することになり、国家の活力を自ら削ぐ結果となる。左派の「多文化主義」が国家の内部崩壊を招く自死であるならば、右派の「血統主義」は国家を閉鎖的なカルトへと貶める自死である。我々はこの二つの致命的なエラーを同時に回避する、全く別のルートを開拓しなければならない。

 そこで機能するのが、我々がレイヤー2で定義した「万物神聖化と氏神への連続性の受容(大和心のインストール)」という、極めて重い『文化の踏み絵』である。

 我々が外国人を共同体に包摂する際、その条件として「ただ法律を守り、税金を払えばよい」という薄っぺらなリベラルの契約(レイヤー1の最低条件)にとどめず、さらに一段深い「文化OSの同化」を強硬に要求したとする。具体的には、日本列島の自然と歴史に対する畏敬の念を持ち、地域の氏神の祭祀(祭りや共同作業)に敬意を持って参加し、自らの労働を単なる経済的搾取ではなく「国家と共同体の連続性を維持するための神事」として位置づけること。そして最終的には、自らの魂がこの国土の神々(先祖)の列に加わり、未来の日本を見守るという霊的・文化的な契約に同意することである。

 このような重厚な文化的同化を国籍付与や実質的な共同体メンバーシップの絶対条件として突きつけた場合、何が起こるか。結論から言えば、日本国家を破壊し得る危険な異物は、この高いハードルの前に自ら勝手に踵を返して立ち去るのである。

 例えば、単に「日本の高い賃金や充実した社会福祉」だけを目当てにやってくる経済的フリーライダー(タダ乗り層)を想像してほしい。彼らは新自由主義的な損得勘定だけで動いているため、「休日に無給で地域の草刈り(道普請)に参加しろ」「氏神の祭りの準備を手伝え」「先祖代々の墓や歴史的建造物に頭を下げろ」といった、経済的合理性から逸脱した日本の共同体的な義務(神事)を極端に嫌悪する。彼らにとって、これらは「個人の時間を奪う無駄な前近代の悪習」にしか見えないからだ。したがって、同化を絶対条件とする社会においては、彼らは居心地の悪さに耐えきれず、自ら進んで他の「多文化主義に甘い国(個人の権利だけを主張できる国)」へと去っていく。文化の同化要求が、見事な経済的フィルタリングとして機能するのである。

 さらに重要なのは、「一神教的、あるいは独善的な政治イデオロギー」を持つ異文化集団に対する防波堤としての機能である。世界には、自らの信じる宗教的教義や政治的イデオロギーのみを絶対の真理とし、それに反する現地の法律や文化を破壊することを「正義」と信じて疑わない集団が存在する。彼らは多文化主義を逆手に取り、「我々の宗教的慣習を尊重しろ」とホスト国に要求しながら、自らはホスト国の文化を「異教徒の野蛮な風習」として侮蔑する。しかし、日本の「八百万の神(万物神聖化)」というOSは、本質的にこのような絶対主義とは相容れない。

 日本の神道や基層文化は、「絶対に正しい唯一の神」を想定せず、すべてのものに神性が宿るという相対主義的かつ寛容な世界観を持っている。しかし、この「寛容」は、「我々の寛容なシステムを破壊しようとする不寛容(絶対主義)」に対しては、極めて冷酷に牙を剥く。もし、ある外国人集団が「我々の唯一神の教義に反するから、神社の祭りには参加しないし、日本の神話は否定する。我々のコミュニティ内では我々の宗教法(シャリーア等)を優先する」と主張した場合、多文化主義のリベラル国家であれば「信教の自由」としてそれを容認してしまう。しかし、三層構造の国家OSはこれを断固として拒絶する。「あなたが個人の心の中で何を信じるかは自由だが、この国家の文化的連続性(氏神への敬意)を否定し、並行社会を作るのであれば、あなたはレイヤー2(日本民族)には決してなれない。法の遵守に反すればレイヤー1(法的国民・滞在資格)からも追放される」と、システムとして冷徹に宣告するからである。

 「文化の同化」を強要することは、一見すると抑圧的に見えるかもしれない。しかし、それは「私たちの家に上がり込み、私たちの家族になりたいのであれば、私たちの家のルールと歴史を心から愛し、それに従いなさい。それが嫌なら、あなたはあくまで一時的なお客(滞在者)にとどまるか、他の家へ行きなさい」という、主権国家として至極当然かつ極めて健全な自己防衛の論理である。この論理には、人種の優劣を説くレイシズムの入り込む隙間は一ミリも存在しない。アフリカ系であろうと、中東系であろうと、白人であろうと、この日本のOSを完璧にインストールし、神社の境内で共に汗を流し、この国のために尽くす覚悟を決めた者に対しては、我々は両手を広げて彼らを「真の日本民族」として熱狂的に歓迎する。血統を問わないからこそ、我々は堂々と、そしていかなる人権団体からの批判にも怯むことなく、他者に対して「同化という踏み絵」を踏ませることができるのである。

 このメカニズムは、マクロ経済的にも国家の「供給能力」を完璧に防衛する。日本列島という過酷な自然環境において、治山治水を行い、道路やインフラを維持し、高品質なモノづくりを継続するためには、共同体内部における「阿吽の呼吸」や「相互の圧倒的な信頼感」、すなわちソーシャル・キャピタルが極限まで高められている必要がある。異なるOSを持った人間が無秩序に混在する社会では、契約書の作成や訴訟リスクへの対応、文化摩擦の調停といった「無駄な摩擦コスト(トランザクション・コスト)」に莫大なエネルギーが奪われ、実体経済の生産性が著しく低下する。同化主義の徹底は、この社会的な摩擦コストを最小化し、国民の労働エネルギーのすべてを「経世済民(供給能力の向上)」へと一直線に振り向けるための、最も合理的な経済政策でもあるのだ。

 以上のように、「血統を問わない文化ナショナリズム(同化主義)」は、外国人を肌の色で排外するという知的な劣等感から日本の保守派を完全に解放する。我々はもはや、リベラル派から「レイシスト」というレッテルを貼られて防戦に回る必要はない。むしろ、我々は彼らに向かってこう反論することができる。「我々は血統などという生物学的な偶然を全く気にしていない。いかなる人種の者であっても、日本の文化を愛し同化する者は同胞として受け入れる、最も開かれた普遍的な思想を持っている。しかし、あなた方リベラルが推進する『同化を伴わない多文化主義』こそが、社会に分断と摩擦を生み出し、治安を悪化させ、結果的に外国人へのリアルな差別と憎悪を増幅させている真のレイシズムの温床ではないか」と。

 左派の無責任な多文化主義を論破し、右派の感情的な血統主義を無力化する。法的契約(レイヤー1)と文化の同化(レイヤー2)を組み合わせたこの見えない防波堤は、現代の国民国家がグローバリズムの荒波から生き残るための、最も論理的で強靭な唯一の解答である。

 しかし、ここに一つの巨大なパラドックス(論理的矛盾)が立ちはだかる。

 我々は、外国人に対して「自らの母国のアイデンティティを捨ててでも、日本の文化と連続性に同化せよ」という、極めて重く、ある意味で残酷な代償を要求している。では、その「同化すべき対象」である日本の文化や連続性とは、誰が保証するのか。もし、国家の主権者であるレイヤー1の国民が、時の多数決ポピュリズムによって「日本の伝統文化は古いから、明日から別のものに変えよう」と決めてしまったらどうなるか。その瞬間、移民たちが血を吐く思いで同化しようとした「日本の歴史的連続性」は、単なる蜃気楼となって消滅してしまう。

 血を問わないレイヤー1(法的国民)とレイヤー2(文化的民族)が、無限の多様性を許容しながらも、国家としての一体性と連続性を保ち続けるためには、そのシステムの中心に『絶対に変化しない、絶対に血統を曲げない、歴史的連続性の究極のアンカー(碇)』が打ち込まれていなければならない。多様な人間を統合する遠心力が強ければ強いほど、その中心には強力な求心力が必要となる。これこそが、一般社会においては血統を否定しながら、国家の最深部においては男系継承という「究極の血統主義」を要求する、第三の層(レイヤー3)、「皇統」の存在論的根拠である。

 次章からは、いよいよこの三層構造の最深部(絶対的コア)へと足を踏み入れる。なぜ、日本という国家システムにおいて天皇制が必要不可欠であるのか。そして、なぜ天皇には基本的人権という近代の普遍的な自由が与えられていないのか。近代社会契約論の極致としての「不自由の代償」という観点から、保守層ですら正確に言語化できていない皇室のシステムの論理的必然性を、完全に解き明かしていく。

【引用文献・資料】

・サミュエル・ハンティントン『誰が私をつくるのか――アイデンティティとアメリカの危機』(鈴木主税訳、集英社、二〇〇四年)

・ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング――米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文訳、柏書房、二〇〇六年)

・デヴィッド・グッドハート『UKイギリス どこにもない場所からの反逆――「エニウェア」族と「サムウェア」族の分断』(遠藤真理訳、草思社、二〇一八年)

・ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』(村井章子訳、日経BP社、二〇〇八年)

・ジャン=ジャック・ルソー『社会契約論』(中山元訳、光文社古典新訳文庫、二〇〇八年)

・柳田國男『先祖の話』(岩波文庫、一九九三年)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。