2-1
「あれ? 井上、加藤のコレクション、四箱あったはずなのに三箱しかないんじゃけど。心当たりない?」
蒲原先輩のその一言で、放課後の生物準備室の空気が、一瞬で凍りついた。
「知らんよ?」
井上先輩が、首を傾げる。
加藤先輩の大事な標本箱が、一箱見つからない。
――これが、俺たち二人の高校生活最初の小さな謎の始まりだった。
***
「環、もう部活決めたん?」
「いや、まだ」
入学式から二週間。
ざわざわと落ち着かない教室では、当初のぎこちない空気はどこへやら、いつの間にか固定されたグループごとに賑やかな笑い声が上がっている。
ようやく、俺も自然に環――犬星環の名前を呼べるようになってきたところだ。俺は相変わらず、環には「崎本」と呼ばれている。
どうやら俺は、このクラスで「犬星環と二人組」だと周囲に認識されている気がしてならない。あの食堂へと向かう環を追いかけたときから、環といることが多くなった。移動教室、体育での二人組、それから昼ごはんの時間――もちろん、席が隣同士だから環と組む、というシチュエーションが多いのは確かだが……これはもう、今、俺の一番の友達は環と言っても過言ではないだろう。
環と仲良くなれたことは悪くないことだと思っている。環の方がどう思っているかは全く分からないけれど。
相変わらず教室ではぶっきらぼうな返事が多い環けれど、二週間前に比べれば、その声や顔からは、いくらか険が取れたように見える。クラスメイトとはまだ距離を置いているようだが、少なくとも俺に対しては、流暢な関西弁で、遠慮のない意見をガンガンぶつけてくるようになった。
先週の金曜日、一年生全員を集めて行われた部活紹介。
俺は早速、今後の身の振り方を考える。――中学まで続けてきたソフトテニスを続けるか、それとも高校からは心機一転、別の部活で充実した日々を送るか。
俺なりにフィフティーフィフティーぐらいで迷っていたはずだけど、いざ先輩たちの実演や勧誘を目にすると、結局慣れ親しんだラケットが恋しくなってしまった。
「俺はやっぱりソフトテニス部に入ろうかなと思っとるんよ。環もどう?」
「絶っっっっ対に、嫌や」
環は、さらりとやわらかそうな髪を額から後頭部へとかきあげながら、即答した。まあ、そうだと思った。
「ソフトテニスはありえんけど……気になる部なら一つあった」
「どこ?」
「生物部」
「生物部かぁ……。まあ、環は運動系の感じじゃあないもんね」
この二週間で分かったことがある。犬星環は、運動が得意ではないこと。体育で、体操や隊列の動きをやったときの環は、ワンテンポ遅れて動くことが多かった。その長い腕や足を思い通りに動かせない、と本人も言っている。背の高さから運動ができそうだと勝手に勘違いされるらしく、いい迷惑ということらしい。
環は読んでいた本から顔を上げると、少しだけ肩をすくめて見せた。
「俺のこと分かっとるやん。運動部はチームワークとか練習メニューとか、正直めんどいし、しんどいわ。崎本は……いかにも、運動なら何でもそつなくこなしそうな雰囲気しとるけどな。入学式の挨拶も堂々としとったしな」
……最後のは、一言余計である。
しかし、環の言う通り、俺はスポーツ全般そこそこできる自負がある。すごく上手くもないが、下手でもない。一番にはなれないけれど、レギュラーにはなれる、といったポジションだ。中学では応援の方も頑張っていた。声を出して、みなを鼓舞するポジションだ。……もしかすると、運動の出来よりも、そっちの方で重宝されていたかもしれない。
それに比べたら。
「確かに、環が走り回っとる姿は想像できんね。みんなで『えいえいおー』とか言っとる姿も。でもなんで生物なん」
「いや、わざわざ言ってなかったけど、俺けっこう昆虫好きなんよ。中学のときは虫好きって言いづらかったんやけど、ここなら言ったってどうせ知り合いもおらへんし、誰も気にせんと思って」
環は、ここに誰も知り合いがいないことを逆手にとって、思い切り封印していた趣味に走ろうとしているらしい。それはそれで、少しだけ羨ましさに似た感情を覚える。
だけど、環一人で生物部に行かせるのも、なぜだか放っておけない。
「よし。じゃあ、今日の放課後にとりあえず生物部、行ってみようか」
俺がそう言うと、環は驚くほどの速さでガバッと音を立てて本を閉じ、顔を上げた。その表情には、驚きと困惑が浮かんでいて、俺は思わず笑いを噛み殺した。――環のこういう感情を隠せない反応が、俺は嫌いじゃない。
「そこまで驚かんでもいいじゃろ」
「崎本も行くん? 行く必要ないやん。生物部に対する茶化しやん。冒涜やん。入る気ないんやろ?」
「冒涜って……俺そこまで人を馬鹿にする人間じゃないと思うで。環が心配なのもあるけど、生物部の先生が面白いって噂を聞いたけん。ちょっと興味あるんよ。ほら、三島センセ」
三島雪人先生。この学校で「変わり者」として有名な生物教師だ。聞けば京大理学部卒の頭のキレる人らしいが――動物の遺体を集めている変わり者だという噂。それから、暗記科目っぽい生物のテストを、ほぼ全て思考力を問うような文章問題で出題し、生物選択者のテストの平均点をめちゃくちゃに下げるという噂が、一年生の教室まで伝わっていた。
その独特のキャラクターのおかげか、上級生の生物選択者の間では圧倒的な人気を誇っているらしい。俺たち一年生はまだ生物の授業がないし、理科は別の先生が担当しているから、普段の学校生活で三島先生に接する機会はほとんどない。
「今日から部活見学期間じゃろ? 行ってみよーや。友達と一緒に部活見に行くの、別におかしくないじゃろ。俺はもうソフトテニス決めとるけん、見学に行くのは後でいいし」
俺が笑顔で促すと、「友達?」と環は呟き、まだ納得がいかない様子で、それでも渋々と頷いた。




