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すっかりのびてしまったうどんを急いでかき込み、俺と犬星は食堂の外にあるベンチに腰掛けて、心地よい外の空気を吸っていた。お腹が満たされたせいか、それとも会話が温まったおかげか、教室を出たときの張り詰めた空気はどこへやら、のんびりとした空気が流れ始めている。
「犬星くんって、最近関西から引っ越してきたん?」
「あー……まぁ、そう」
犬星は少しだけ視線を落とし、若干言いにくそうに口を開いた。
「隠したところでどうせそのうちバレると思うし、言っとくけど。俺、一人暮らしやねん」
「ええっ!? 一人暮らしなん!?」
あまりにも予想外だったから、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
ここは進学校と言えども、公立。基本的には実家から通うのが当たり前だ。一人暮らしをしている人もいるって聞くけど、三学年合わせても、おそらく片手で数えるほどしかいないだろう。
「あ……ごめん」
「いや、ええよ。普通、そういう反応になるやんな」
犬星は気にした風でもなく、自嘲気味に小さく笑った。
「両親が絶賛揉めとってさ。家の中の空気が最悪やったから、俺だけ母親の実家があったこっちに避難してきたわ。実家言うても、ばあちゃんもじいちゃんももうおらんし、ほんま家だけやけど」
思いがけずヘビーな家庭の事情を知ってしまい、俺は途方に暮れた。
こういうときに、相手を傷つけず、かといって湿っぽくもならない言葉をサッと返せるのが本当の「コミュ力」というやつなのだろう。けれど生憎、高校に入ったばかりの俺には、そこまで洗練されたスキルは備わっていなかった。
どうしよう、なんて声をかければ――。
「まぁ、そんな気にせんでええよ。そのうち母親も来るかもしれんし。同情とかもいらんしな。もう俺も高校生やし、両親には自分らの人生を好きに歩いてほしいって、本気で思てるから」
犬星はそう言って、遠くに見える呉の海を見つめた。
表情は変わらず、本心は読み取れなかったが、その言葉の芯は驚くほどしっかりしていた。「犬星は、俺よりずっと大人に近づいてるんだな」と、眩しさに似た感情を抱く。
「分かった。じゃあ、必要以上に気にせんよ?」
俺は小さく息を吐き出し、あえていつもの調子で笑ってみせた。
「俺、気にせんって言ったらマジですぐ忘れるタイプじゃけんね? 明日には『犬星くんのお母さんってどんな人?』とか平気で聞いてしまうかもしれんけど、ええ?」
もちろん、本当に忘れるわけがない。そんなデリカシーのない質問をするつもりもない。だけど、同情して腫れ物に触るような付き合い方をしたくないという俺なりの意思表示だった。
少しおどけて見せた俺の言葉に、犬星は一瞬きょとんとしたが、すぐにツッコミを入れてきた。
「ふっ……忘れるなや。でも、入学式に台本忘れた崎本なら、ほんまに忘れとるかもな。……それくらいの方が楽でええわ」
犬星はうんうんと一人頷く。
「あ、あと犬星君づけやめてーや。なんかぞわっとするわ。君付けが久しぶりすぎて」
「関西の人は、『君』使わんのん?」
「いや、そんなことはないんやけど……」
なら、どうやって呼んだらいいだろう。ここは無難に『犬星』と苗字呼び捨てだろうか。名前は……なんか急に距離詰めすぎな気もする。『じゃあ、犬星ね』と言おうとした瞬間。
言いにくそうに環が言った。
「下の名前でええわ。犬星って大阪でも珍しい方なんやけど、広島ならなおさらその苗字珍しいねって突っ込まれるん、めんどくさいし。しかも、もうすぐ離婚で、犬星じゃなくなる可能性もあるねん」
彼っぽい捻くれた理由ではあったけど、名前で呼んでいいと言われたのは意外と嬉しかった。
「じゃあ、環ね」
慣れない名前を呼んでみるのは勇気がいった。だけど、心の距離が、また一歩近づいた確かな手応えがある。
俺も下の名前でええよと言おうとしたけど、それよりも先に――環は、彼本来の調子を取り戻したかのような余計な一言を、涼しい顔で言ってのけた。
「一人暮らしは自由で楽しいんやけどなぁ、ちょっと大変やな。俺の住んどった大阪の方が圧倒的に都会やったからな。呉はちょっと……これから若干物足りんくなりそうなのが惜しいところやな」
俺は、テレビで何度も観たことのある大阪梅田のビル群や、道頓堀のきらびやかなネオンを思い浮かべた。確かに、都会度で言えば逆立ちしたって敵わない。
「でもさ、ここにも面白いものはあるよ。せっかくじゃけん楽しんだらええじゃん。俺、暇なときはどこでも案内するし」
「……へぇ。じゃあ、たまには頼むかもな」
環が素直にそんな言葉を口にしたので、俺は嬉しくなって、ふと思いついた提案をしてみる。
「あ、大阪と広島といえば。犬星くん……えっと、環はもうこっちでお好み焼きは食べたん? 今度、帰りに呉駅の近くの店に一緒に食べに行かん?」
「お好み焼き? ああ……あれやろ。『広島焼き』ってやつ」
「しぃぃぃーーーっ!!!!」
あまりにも恐ろしいワードに、俺は唇の前に人差し指を立てて、それからできる限り小声で言った。
「ちょっと、それ広島で言うたらえらい目に遭うことがあるけん、絶対にやめとけ! 俺は気にせんけど、そこだけはマジで譲れんっていう熱狂的なこだわりを持っとるやつが、うじゃうじゃおるんじゃけん」
「何やねん、大袈裟な……」
環は鼻で笑って、心底めんどくさそうに身を引いた。
「大袈裟じゃないわ! 『広島焼き』って言い方は、こっちじゃめちゃくちゃ角が立つんよ。大阪のあのお好み焼きのことを、他県民から『大阪焼き』とか言われたら、なんかモヤッとせん?」
「いいやん、別に。伝われば何でも。つーか、大阪焼きとか言うやつおらんわ」
環は呆れたように肩をすくめる。
……まぁ、いい。生まれ育った文化が違うんだ。最初は分かり合えなくて当然だ。
「よし、一人暮らしを始めたばかりの犬星環くんに、地元の先輩としてアドバイスをあげるわ。――『郷に入っては、郷に従え』。これからこの街で生きていくなら、あれは『お好み焼き』って呼ぶこと!」
「なんやそれ。めんどくさ」
環はそう言いながらも、どこか楽しそうに、本日一番の柔らかい笑顔を見せた。
キーンコーンカーンコーン――。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
「あ、やべ。戻らんと遅刻する!」
「走るぞ、崎本」
俺たちはベンチから飛び起き、校舎へと向かって駆け出した。
校庭をすり抜けていく春風が、俺たちの背中を押す。
これから始まる騒がしい毎日の予感に、隣を走る環をそっと盗み見た。




