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1-3

 今日一日のすべてのプログラムが終わると、犬星は保護者と新入生がごった返す人混みの隙間をスルスルとすり抜け、流れるような足取りで帰ってしまった。彼のまわりに保護者らしき姿は見当たらなかった。一緒には来ていなかったのだろうか。

 ――その日の夜、家に帰った俺は、スライムのようにぺしょんと、疲れた体をベッドにくっつけて、天井を見つめながら考えていた。

 結局、あの体育館でのとんでもないやり取りの後、犬星とは一言も話せないままだった。わざわざ届けてくれた台本も、彼の机の上にぽつんと置かれているのを俺が回収しただけだ。

 犬星環。なんだか、妙なやつだ。

 人見知りで、周囲に全く興味がなさそうに見えるのに、俺がピンチだと知った瞬間にあの坂を教室まで全力疾走してくれるなんて。

 最初は人に興味がないみたいに見えた。だけど、意外と周囲のことをよく見てる。全然掴めない。

 まぁ、まだ一日目じゃないか。

 明日から、あの隣人とどんな風に過ごせばいいのだろう。

 疲労で鉛のように重くなった体に、起き上がることを拒否され、俺はそっと瞼を閉じた。

 

 明けて、二日目の高校生活。

 教室の空気は、昨日とはまた種類の違う緊張感に満ちていた。

 昨日は入学式というイベントをこなすだけだったが、今日からは本格的な学校生活が始まるのだ。誰もが周囲の出方を探るような、落ち着かない視線を交わし合っている。

 そして今日は、新入生にとっての最初のイベントが控えていた。

 ――そう、昼ごはんを初めてこの教室で食べる。「誰を誘うか、あるいは、誰に誘われるか」問題の勃発である。

 同じクラスに同じ中学校だった友達がいる人は、そんな心配は要らないだろう。もしくは、中学から塾に行って、塾で知り合った友達がいる人は。けれど、俺の場合は、同じ中学からの進学者は学年全体でたったの五人。しかも全員、クラスは見事にバラバラ。この五組には、知り合いが一人もいない。一歩間違えれば、初手から一人になる可能性だって十分にある。

 とはいえ、俺は静かに「誘われ待ち」をするような人間ではない。こういうときは、積極的に動いた方が良い。一人で静かに食べるのが悪いことだとは全く思わないけれど、もし教室の隅で寂しそうにしている奴を見つければ、俺から声をかけるつもりだった。

 せっかく掴んだ高校生活。友達百人……とまではいかなくても、たくさんの友達と、賑やかに仲良く過ごすことには憧れがある。

 ふと、視界の右端に、気だるそうに頬杖をついている犬星の姿が映った。

 ――犬星は、友達百人なんて概念、頭の片隅にもなさそうだな。

 今日だって、朝からほとんど口を利いていない。前の席の青木くんが一度「今日の数学って、この教科書で合っとる?」と話しかけていたのに、犬星は「さあ」「多分」とだけ低く答えて、速攻で会話を終わらせていた。

 さて、俺はどこからどうやって昼ごはんに誘おうか。

 昼休みが始まる前の四時間目の授業中、脳内でシミュレーションを行ってはみたものの、この後、事態はまったく予想外の方向へと転がっていくことになる。


 キーンコーンカーンコーン――。

 

 昼休みのチャイムが鳴った瞬間、俺の席のまわりに、ドタドタと数人の男子生徒が集まってきたのだ。

「なぁ、崎本くん! 昨日の新入生挨拶、めちゃくちゃ格好よかったで!」

「……崎本くんって、もしかして入試の成績が学年一位だったん?」

 キラキラとした、あるいは値踏みするような視線が一斉に俺に注がれる。

「え!? ちょっと待って、それは完全に誤解よ!」

 俺は慌てて首を振る。ここは市内トップの公立進学校だ。毎年、数名ではあるが、東大や京大へ合格者を出すような、各中学校のトップだった人間たちが集まる高校。そんな場所で「学年一位」の看板を背負わされるなんて、勘弁してほしい。俺が一位を名乗るなんて、おこがましいにも程があるし、何よりこれからの生活のプレッシャーが半端ない。

「俺、一般入試じゃなくて推薦入試組なんよ」

「えっ、そうなん」

「そうそう! じゃけん、筆記試験の点数はゼロ点じゃし、学年一位もありえんし。春休みに教頭先生から電話があって『今年は推薦の枠の人にお願いすることにしました』ってさ!」

 嘘は言っていない。

 必死になって事情を説明すると、俺を囲んでいた同級生たちは、一瞬だけ呆気に取られたような顔をした。

 そして次の瞬間――。

「あぁ……そういうことね! 推薦のトップだったんか!」

「それでも十分凄いけどな!」

 彼らの顔に、あからさまな安堵の表情が広がったのが分かった。

 言葉では褒めつつも、彼らの目の奥にある張り詰めたプライドが、ふっと緩む。

 なるほどね、と俺は少し冷めた頭で理解した。

 彼らにとって、同じクラスの隣の席に入試トップの人間がいるかどうかは、重要なことなんだ。早くも目に見えないライバル意識の火花が、この教室のあちこちで散っているのかもしれない。誰がどのぐらい勉強ができるのか知りたい気持ち、それは分からなくもない。

 みんながホッとしたように笑い合い、お弁当の準備を始めようとした、そのとき。

 俺は、すぐ右隣からの、刺さるような視線に気づいた。

 ぱっと目を向けると、犬星が頬杖をついたまま、じっと俺を見ていた。

 え……?

 犬星だけは、まわりの奴らのような安堵の表情を、一切浮かべていなかった。

 それどころか、彼の綺麗な眉は歪み、まるで今にも泣き出しそうな、ひどく傷ついたような目で俺を見つめていたのだ。

 ほんの一瞬の出来事だった。俺と目が合うと、犬星はすぐにフイッと視線を逸らしてしまった。

 今の……泣き出しそうな、心配そうな、怒っているような複雑な顔は、一体何だったんだ。俺のただの勘違い?

「あ、そうだ。犬星くんも、もしよかったら一緒に机くっつけてお弁当食べん?」

 俺たちの緊迫した空気に気づくことなく、青木くんが、犬星に声をかけた。

 犬星は一瞬だけ青木くんを見つめ、それから抑揚のない声で短く言った。

「いや。俺、弁当じゃないし、食堂で食べる」

 ガタリ、と椅子を大きく引いて、犬星は立ち上がった。そのまま、誰とも目を合わせることなく、教室の外へと歩き去っていってしまう。

「あはは。犬星くん、なんかマイペースで面白いキャラだよね。じゃあ崎本くん、俺たちと食べようや!」

 青木くんは何の悪気もなく笑い、自分の机を引きずってきた。まわりの奴らもそれに続いて賑やかに席を組み替え始める。

 マイペースで面白い。確かにそう言えるのだけど、でもそれだけなのだろうか。俺の心の奥には、何とも言えないモヤモヤした気持ちが広がっていた。


 ***


 俺は、その日の夕食のテーブルで、箸を持ったままボーッと宙を見つめていた。

 気を抜くと、そのまま皿に顔を突っ込んで寝てしまいそうなほど、疲労感が半端ない。

 俺は、初対面の相手とも物怖じせずにニコニコ話せるタイプだし、それが自分の得意分野だとも思っている。だけど、さすがにまだお互いの距離感も分からない相手に対して、必死に親しくなるための笑顔を作り、頭をフル回転させて会話を続けるのは、想像以上にエネルギーを消耗したみたいだ。

 頭の回転が鈍っている中でも、俺の脳裏に浮かんできたのは、またしても右隣の男――犬星のことだった。

 犬星は、今日もどこかおかしかった。

 俺がまわりの同級生たちに「学年一位」と勘違いされたときにあいつが浮かべた、あの顔の意味。どうしてあんな顔をしたんだろう。

 それに、やっぱり「犬星」って名前は、どこかで絶対に聞いたことがある。

 ふと、食卓から顔を上げると、つけっぱなしにしていたテレビのバラエティ番組が目に留まった。そのとき、俺の頭の中で、ぴかりとフラッシュがたかれたような感覚がした。

 一時的に、眠気が吹き飛ぶ。

 そうだ、思い出した。俺は「犬星」という珍しい苗字を――テレビで、耳で、聴いたことがあったのだ。

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