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取り出した真新しい白い封筒を、開かないまま手の中で弄ぶ。
何度も口に出して練習した言葉は、ほとんど頭に入っている。この紙は、緊張を和らげるためのお守りのようなものだ。多少の心臓のバクバクはあるけれど、本番も問題なくこなせるはず。
「はーい! 新入生のみなさん、おはようございます!」
脳内シミュレーションが佳境に入ったところで、教室の引き戸が勢いよく開き、響き渡るような女性の声が響いた。
途端に、それまで多少なりともざわざわとしていた教室が、水を打ったように静まり返る。俺も慌てて、手の中の台本を、まだ何も入っていない机へ押し込んだ。
「はい、ホームルームを始めます! みんな、入学おめでとう! 私はみなさんの担任の、岡崎ミサキです。専門科目は英語! 家は、ここから音戸大橋を渡った先、音戸町っていうところにあります。よろしくね!」
勢いのある先生だった。入ってきた途端に自己紹介なんて。
それにしても、岡崎先生は音戸町に住んでるのか。そこは、まさに俺が生まれ育ち、今も住んでいる島にある地区だ。まさか担任の先生が同郷だとは思わなくて、親近感から少し緊張がほぐれる。
「こんな感じで、一人ずつ簡単な自己紹介をしてもらおうか。これが終わるぐらいの時間に、みんなで下の体育館に移動するからね! じゃあ、出席番号一番の青木くんから、どうぞ!」
岡崎先生の威勢のいい声に促され、一番前の席の男子生徒が緊張した面持ちで立ち上がった。
「青木真一です。特徴は、漢字で書くと左右対称になる名前です。えーっと、和庄中学校出身です。よろしくお願いします」
彼が言い終わった瞬間、俺は大きな拍手を送った。
脳内には、さっき必死に髪を整えていた姿や、手元の紙に何かを書いていた姿が思い浮かんでいた。あのとき彼が書いていたのはただの落書きじゃない。多分、新入生自己紹介のシミュレーションだ。
よっぽどトリッキーな思考の担任じゃない限り、自己紹介は出席番号順に当てられる。青木くんはそれに備えていたんだろう。髪を整えていたのだって、きっとそうだ。
あとで、聞いてみようか。名前の左右対称は今考えたのか、それとも以前から準備しているものだったのだろうか。どちらにしろ、自己紹介を真面目に準備しているなんて、良い人そうだ。
そして、すぐ次は――俺の右隣、例の電動自転車の彼の番だった。
彼は先生に名前を呼ばれると、スッと立ち上がった。ただ立っただけなのに、その一連の動作が妙にスタイリッシュにうつり、教室中の女子の視線が集まるのが分かった。……俺の気のせいかもしれないけど。
「……犬星環です。よろしく」
彼はそれだけをぶっきらぼうに告げると、余韻もなくスッと席に座ってしまった。
「え? それだけ?」
「みじかっ」
当惑したような微かなざわめきが広がる。岡崎先生も一瞬だけ呆気に取られたようだったが、それを誤魔化すように「はーい、よろしくね!」と大きな拍手を先導した。
犬星環。
ものすごく人見知りなのだろうか。それとも、周囲に全く興味がないのか。普通、こういう自己紹介は、前の青木くんに倣って、出身中学とか……趣味とか、部活とか、そういう適度な情報を付け足して言うもんじゃないのか?
それにしても「犬星」か。なんだか珍しい苗字だけど、どこかで聞いたことがあるような感覚があった。けれど、それを深く思い出す時間はない。
その後も、俺の番が来るまで数人の生徒が、出身中学や部活、趣味などの適度な自己開示を踏まえた模範的な自己紹介を続けていった。
よし、来た。俺の番だ。
俺はブカブカの制服の裾を軽く整え、席から勢いよく立ち上がった。
「崎本洋です。音戸中学校から来ました。岡崎先生と同じで、今も音戸の島に住んでます。中学の時はソフトテニス部をやってました。よろしくお願いします!」
顔にはにこにこと笑顔を浮かべ、わざと少し砕けたトーンを意識して声を出した。自己紹介の項目だって、ここまでのクラスメイトたちが言った要素を盛り込みつつも、手短に。
言い終えた瞬間、教室内には、さっきの犬星のときよりも明らかに大きくて、温かい拍手の音が鳴り響いた。よし、掴みはバッチリだ。
俺は満足感に浸りながら席に座り、ふと右隣を見た。
また犬星と目が合う。だけど、犬星は俺から目を逸らし、再び前を向いた。
やっぱり、人見知りなのだろうか。
***
新入生入場は、お世辞にも締まりのあるものとは言えなかった。
でも、それも仕方のないことだ。中学校までの運動会や卒業式のように、何日も前から予行演習をするわけではない。高校の入学式は、ぶっつけ本番。
その上、中学とは比べものにならないほど人が多い。歩くスピードもまちまちで、前も後ろも大混雑している。キビキビと格好よく歩くことなんて不可能に近い。前の人のかかとを踏まないように、足を動かして進むしかない。
そして今、ようやく辿り着いた体育館の座席で、俺は天を仰ぎ見ていた。
指定された座席は、座席の折り返しの関係で、まさかの犬星と前後。しかも、犬星が前で、俺が後ろという並びだった。
……前が、全く見えない!
小柄な俺の前に、あの高身長の彼が座っているのだ。前を向けば、俺の視界は犬星の広い背中で埋め尽くされていた。
ステージ上では、校長先生や、教育委員会の偉い人たちの祝福の言葉が次々に読まれていく。読んでいる本人の姿は犬星の影に隠れて見えないが、スピーカーから流れる声はじゅうぶんに聞き取れる。進行上の問題はない。
退屈だと思っていた祝辞だが、温かい言葉を聞いているうちに、俺の胸の中にふつふつと心地よい緊張感とやる気が湧いてきた。
よし。俺もかっこよく新入生代表挨拶を決める。
俺は、出番前に心を落ち着かせるため、お守り代わりの台本を取り出そうとした。あの封筒だ。
ブレザーのポケットに、手を突っ込む。
――あれ?
指に触れるのは、空っぽの布の感触だけだった。
おかしい。
俺は慌てて、胸ポケット、ブレザーの隠しポケット、ズボンの前ポケット、さらに後ろのポケットまで、まるで下手なダンスでも踊るかのようにバタバタと手を突っ込んだ。
ない。どこを探しても、あの台本がない……!
嘘じゃろ!?
血の気が一気に引いていく。
そういえば、俺は教室でシミュレーションをしていた。それが佳境に入ったところで岡崎先生が勢いよく教室にやってきたのだ。
あのとき、俺は慌ててカバンに……いや、違う。カバンじゃなくて、あのとき座っていた机の中に、そのまま突っ込んだんだ!
俺が椅子をガタガタと鳴らし、制服のあちこちをゴソゴソと探る異変に気づいたのだろう。
スッと、目の前の背中が動いた。
犬星が、静かに後ろを振り返ったのだ。初めて、犬星環が俺な話しかけた瞬間だった。
犬星の瞳が、射抜くように俺を見つめている。
「……新入生代表挨拶の台本、まさか忘れたん?」
今日二度目の犬星の声は、呆れを含んでいるように聞こえた。
なんで俺が代表だと知っているのか、なんで台本を忘れていることが分かったのか? 疑問は浮かんだが、ただただ圧倒されてコクコクと首を縦に振った。
「教室に忘れてきた……」
俺はこそこそと小さな声で話した。
さすがに、犬星以外の周囲にいる人たちまで、どうした?という目でこちらを見つめている。幸い、左右にいる四組と六組が壁になっていて、遠くにいる先生たちにはばれていない。
「さっき教室で、担任が入ってきたときに慌てて机の中に突っ込んどったよな」
俺は目を見張った。
寝ているとばかり思っていたあのとき、犬星は突っ伏した腕の隙間から、俺の行動をしっかりと観察していたのだ。想像すると、なんだか少し怖い。
「あぁ……完全に机の中じゃわ……」
頭がパニックでどうにかなりそうだった。父と母にバレたら「何でこんな大事なときにおっちょこちょいを発動するん?」って呆れられるに違いない。本日二度目の発動だが、一度目と比べものにならないほど、二度目が重すぎる。
俺の出番まで、あと何分ある?
確か、新入生代表挨拶の前には、先輩からの歓迎の辞があるはずだ。ステージの上ではまだ来賓の祝辞が続いている。先輩の出番を含めれば、あと五分から十分近くの猶予はあるのではないか。
全速力であの坂の上の教室まで取りに行くべきか。それとも、諦めて、頭の中の記憶だけを頼りに壇上に上がるべきか。
俺の中で、「記憶を頼りに喋ろう」と答えが決まった、まさにその瞬間だった。
間が悪いこと、この上ないにも程があった。
犬星が、さっと中腰で席を立って歩き出す。
それがあまりにも躊躇のない動きだった。犬星の右隣に座っていた青木くんも、そして当事者である俺も、まわりにいた他の生徒たちも、全員が「えっ」と息を呑んでギョッとした。
「俺、取ってくるわ」
「え!? いや、待て――」
中身は覚えてるから何とかなるよ、と俺が全てを言い切るより先に、犬星は俺の制止なんて聞かず、音もなく、けれど驚異的なスピードで、体育館の出口に向かってすり抜けていってしまった。
俺は、厳かな式典の最中に大声を上げることもできず、ただ遠ざかっていく後ろ姿をポカンと見送るしかなかった。犬星に伸ばしていた手も引っ込めた。
なんで犬星が取りに行くんよ……!
ツッコミたいことは山ほどある。けれど、俺自身が追いかけるわけにはいかないのは確かだった。いつ何時、進行が早まって自分の名前が呼ばれるのか分からないほだから。
もういい。犬星のことは一旦置いておこう。
――あぁ……でも気になる!
頭の中で台本を思い出そうとするのに、勝手に出ていった犬星のことばかりがぐるぐると駆け巡り、体育館の入り口が気になって仕方がなかった。
さぁ、俺が台本なしで壇上へ上がるのが先か。それとも、犬星が坂を往復して戻ってくるのが先か。
その答えは、思ったよりもすぐにやってきた。
「――続きまして、新入生代表挨拶。新入生代表、一年五組、崎本洋さん」
スピーカーから、無情にも俺の名前が響き渡った。
一瞬、目の前が真っ白になる。
だけど、もう逃げられない。俺は深く息を吸い込み、バクバクと鳴り響く心臓を必死に押さえつけながら、座席から立ち上がる。
新入生、保護者、先生、在校生たち――数百人の視線が、一斉に俺に集まる。
一歩、また一歩、ステージへと続く階段を登る。ブカブカの制服が、さらに重く感じられた。
大丈夫、大丈夫。春休み中、鏡の前で何十回も声に出して練習したけん。全部頭に入っとるはず……!
ステージ中央のマイクの前に立ち、体育館を見渡す。手元には、お守りになるはずだった紙はない。
だけど、マイクの前に立つと、不思議と腹が据わった。
「春のあたたかいこの陽気――」
俺はしっかりと声を張り、前を向く。
何度も何度も自身に馴染ませた言葉が、溢れるように口から滑り出していく。途中、緊張で少し声が震えそうになったけど、どうにかこうにか、一度も言葉を詰まらせることなく、完璧に代表挨拶を言い終えることができた。
大きな拍手の音が、体育館の天井に反響している。
やりきった。
俺は安堵の汗を隠しながら、壇上で深く一礼をした。
そして、ゆっくりと顔を上げた、その時。
体育館の入り口に、立っている男子生徒が目に入った。
――犬星環だ。
いつから、そこにいたんだろうか。
彼は呆然とした様子で立ち尽くしていた。
距離が遠くて顔の表情までは見えなかったけれど、その手には、しっかりと俺が机に忘れていった、あの白い封筒が握られているのが分かった。
俺が席に戻った後に、さらにこっそりと戻ってきた犬星に、俺はなんて声をかければいいのか分からなかった。
ありがとう? おつかれ? 話聞けよ?
――一生懸命取ってきてくれた相手に、最後のは無しだ。
「間に合わんかったね。でも崎本くんすごかったよ。全然台本なしでいけとった」
青木くんが、からりと笑ってくれたのが救いだった。




