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これから三年間、毎朝この坂道を登るのか。俺は、入る高校を間違えてしまったかもしれない。
うららかな春の陽気に当てられながら、俺は早くも目の前の坂を仰ぎ見て、小さくため息をついた。周囲には、俺と同じように真新しい制服に身を包み、坂道を登り始めた者が大勢いる。
本日は、広島県立七津田高校の入学式だ。
坂の街・呉を象徴するような、見晴らしの良い高台に位置する七津田高校。公立ではあるが、この地域では一番の進学校として知られている。
「じゃあね、洋。あんた、あんまり緊張しんさんなよ。また後でね」
坂の手前で、一緒に付いてきてくれた両親と別れる。
この高校は少し変わった構造をしていて、普通教室がある校舎の多くは坂の上にあるのだが、本日入学式を行う体育館だけは、坂の下に位置している。新入生はまず各自の教室に集合してホームルームを行い、それから一斉に坂を下りて体育館へ向かうことになっている。
「あ! 洋、それはこっちに渡せよ」
「忘れとった。ごめん」
俺が持っていた、両親の分の上履きを父に手渡す。手に持っていたくせに、渡すのを忘れて教室に向かうところだった。これがないと、両親はスーに靴下という情けない姿で体育館を歩き回ることになってしまう。
「……おっちょこちょいは治らんな」
「大丈夫大丈夫!」
両親が心配そうに見つめる中、俺は、一人で坂を登り始める。歩き出すと、すぐに制服のズボンの裾が長くて歩きづらいことに気づく。丈が、長すぎるのだ。上着の肩幅も袖丈も、今の俺の体型には明らかに一回り以上大きい。鏡を見るまでもなく、小柄な俺が、完全に制服に着られている状態だった。
急な坂を一歩一歩踏みしめる。なんとか涼しい顔を取り繕ってはいるものの、四月の割に強い日差しのせいで、カッターシャツの下はすでにじっとりと汗ばんでいる。
ふと横を見ると、徒歩圏内から来ているのであろう自転車通学組の生徒たちも、さすがにこの坂ではサドルからお尻を浮かすことすら諦め、自転車を押してトボトボと歩いていた。
まぁ、そりゃあそうだよね。
この勾配だ。無理に立ち漕ぎで挑むより、最初から諦めて押して上がる方が筋肉の疲労も少なく、結果的に効率的で早い。「自転車置き場くらい、坂の下に作ってくれればええのにね」なんて、見知らぬ自転車組に心の中で勝手な同情を寄せながら、ようやく坂を登り切った。
その直後だった。
「うわっ!?」
「きゃっ、危なっ!」
背後から、いくつかの短い悲鳴が上がった。
何事かと思って俺が振り返った瞬間――。
ヒュン、と風を切る鋭い音とともに、涼しい顔をした一人の男子生徒が、俺の真横を猛スピードで通り過ぎていった。黒いサラサラの髪を春風になびかせ、長い足で、ぐっとペダルをこいでいる。
一瞬だけ、その彼と目が合った。
よく見れば、彼が乗っているのは太いフレームの電動アシスト自転車だ。自転車に乗った状態でも一目で分かるほど、随分と背の高い、スタイルの良い男の子だ。
「なんだ、あれ……」
高校生の入学式に、電動自転車で、しかもあの坂を座ったまま涼しげに登るなんて。
一方で、納得感もある。なるほど、最新のテクノロジーを使えば、この呉の坂道も平地同然になるわけか。
呆気にとられながらも、俺は彼の消えていった先を見つめ、再び歩き出した。
自分のクラスである一年五組の教室を目指す。
「ええと、一年五組は……」
新校舎の一階にある教室へと向かう。
一年五組の教室はすでに三分の二以上の席が埋まっていた。
学校から指定された新入生の集合時間までは、あと約二十分。呉で一番の進学校というだけあって、初日から遅刻か、もしくはギリギリにくるような人間は少ないみたいだ。
気のせいかもしれないが、みんな真面目そうで、少し硬い表情をして静かに座っている者もいれば、近くの席の人とぎこちない会話をしている者もいる。教室内には、入学式の日特有のピリッとした緊張感が漂っていた。
俺は黒板の横に貼られた座席表を確認し、自分の名前が左上に貼られた机を探し当てた。
「崎本洋……よし、ここだな」
二列目、前から二番目。
もっと後ろがよかったなぁ、なんて。
カバンを机のフックにかけ、一息ついて何気なく右隣の席に目をやる。
――思わず目を見張った。
そこに座っていたのは、まさかのあの電動自転車の彼だった。
座っているのに、背の高さが分かる。ブカブカの制服を着ている俺とは対照的に、彼は真新しいブレザーをスマートに着こなしていて、なんだかそれだけで少し気後れしてしまう。今年の一年生の証である緑と紺のストライプのネクタイも、妙に似合っている気がした。
俺は、脳内でシュミレーションを始める。
「おはよ! 今日、電動自転車できとったね。あの坂も自転車から降りずに登れるし、めっちゃいいなって思ったよ!」
――これからの高校生活、隣の席のやつとは仲良くしておくに越したことはない。席替えは少し先だろうし。俺の得意とするコミュ力を発揮して、さっそく話しかけようとした。……が、寸前で言葉を飲み込む。
――待って。
みんながハァハァ息を切らして登ってきた坂を、一人だけ楽勝で登ってきたことを指摘されるのって、もしかしたら嫌味っぽく聞こえるかもしれない。坂の上で俺と目が合ったから、俺のことも覚えているかもしれないし。
というか、俺は電動自転車に乗ったことがない。もしかして、涼しく見えていても、電動自転車はとてもしんどい乗り物って可能性はないか?
万が一、電動自転車が苦しかった場合、楽勝と決めつけるのはよくない。いい気分はしないよな。
こういうとき、俺は目の前の人間気持ちを、ついつい推測してパズルみたいに組み立ててしまう癖がある。
でも、今日は初日。言葉選びは慎重にいくべきだろう。
「電動自転車なら、毎朝あの坂も降りずに登れそうじゃね。俺なんてもう汗だくよ」
当たり障りはないが、このくらい自虐を混ぜた塩梅がベストだろうか。
よし、話しかけるぞ――そう心に決めて、俺が「あの」と口を開きかけた、まさにその瞬間。
周囲を完全にシャットアウトするように、電動自転車の彼は、机の上に両腕を組むと、そのまま突っ伏してしまった。滑らかな黒髪が、さらりと広がる。
嘘じゃろ!? 寝るん!?
ホームルームが始まる前の貴重な友人作りの時間を、彼は完全に放棄している。さすがに、机に突っ伏している人間の背中を叩いてまで話しかける勇気は、初日の俺にはなかった。
出鼻をくじかれた俺は、諦めてじっと自分の席に座り、ホームルームが始まるのを待つことにした。まぁ、いいよ。仲良くなる機会はこれから先、いくらでもあるんだから。
話しかける相手を見失った俺の視線は、自然とななめ前の席に座る男子生徒へと向かった。彼はさっきから、妙な行動を繰り返している。カバンから筆箱を出したり引っ込めたり、スマホの黒い画面を鏡代わりにして何度も前髪をいじったり。それに、手元のノートに何か書いている。漢字四文字? 名前か?
もっと彼の手元を見ようとしたけれど、紙が遮られる角度に入って見えなくなってしまう。
そうだ、それよりも俺は気にしないといけないことがあるな……。
俺は、カバンの中から、今日一番の「難題」を取り出した。
――新入生代表挨拶の台本が入った白い和紙の封筒。
どうしてこうなった。俺は、なぜか今日の入学式で、新入生を代表してステージの上で挨拶を行うことになっているのだ。
あれは、春休みが始まったばかりの、まだ少し肌寒い頃だった。
俺の家の固定電話に、七津田高校から一本の連絡が入った。電話の相手は教頭先生だったと思う。
『崎本洋くんでしょうか? もしよろしければ、今年の入学式で、入学者代表挨拶をお願いできませんか』
受話器を持ったまま、俺は完全にフリーズした。
本当かどうかは知らないが、七津田高校の入学式挨拶というのは、その年の入試で「最も優秀な成績で合格した者」が務めるのが定番だと、聞いたことがあったからだ。
しかし、奇妙だ。それならば、俺に話がくることなんてないはず。
最近は受験した学校の成績を開示できるとはいえ、あいにく俺は一般入試ではない。内申点、それから小論文と面接で合否が決まる「推薦入試組」なのだ。俺は、お世辞にも学年で一番頭が良いというタイプではない。今年から、ルールが変わったのだろうか。
『俺でいいんですか?』
思わず素直に訊き返してしまった俺に、電話の向こうで教頭先生は、少し困ったような、でも優しい声でこう言った。
『ええ、崎本くんは推薦の枠の中で、小論文も面接も文句なしのトップの点数だったんですよ。自信を持って、ぜひ引き受けてください』
そう言われて、悪い気はしなかった。困惑よりも嬉しさが勝り、俺でいいならと引き受けることにした。
『ああ、よかった。崎本くんに断られたら、今年はどうしようかと思っていましたから』
最後の教頭先生の言葉は、少し不思議に思ったのを覚えている。
結果として、俺は残りの春休みを、インターネットで検索をしながら必死に挨拶の文面を考えることに費やした。自分でも真面目だななんて思う。幸い、ネットにはいくらでも新入生代表挨拶のテンプレートがあったし、最終的にはAIも活用して、不自然な敬語を整えてやった。もちろん、鏡の前での音読練習も怠らなかった。




