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女の子の小さな後ろ姿が人混みの向こうへと完全に消え去った瞬間、俺は我慢できずに環を問い詰めた。
「環! なんで分かったんだよ、あの子が財布の持ち主だって! 環もさっき、屋台の前で一緒に後ろ姿見とったじゃろ? あのときは麦わら帽子に青いスカートじゃったじゃん! なんで黄色いTシャツに黒いズボンの子が本人じゃって断言できたん!?」
「声が大きい、崎本。叫ぶな」
環は、やれやれと首を振った。
「せっかく呉焼き買ったんやし。ひとまずあそこのベンチに座ろう。話はそれからや」
環の言葉に、俺は冷静になった。
「あ、うん。そうじゃね……」
俺たちは芝生広場の端にある木製のベンチへと移動した。パックの蓋を開けると、閉じ込められていた熱い湯気と一緒に、甘辛いソースの匂いが広がった。半分に折りたたまれた呉焼きに箸を入れ、中にぎっしりと詰まった熱々の細うどんを、生地と一緒に口に運ぶ。うどんと、たっぷりのキャベツ、そして豚肉の脂の旨味がソースと絡み合って、文句なしに美味い!
環は器用に、一口では食べられそうにない量の呉焼きを箸でかかげ、ふうふうと息を吹きかけながら口に運んでいた。環は、一切れを飲み込んだところでようやく話し始めた。
「……あの子の靴、見たか?」
「靴? あぁ、ちょっと汚れとった気が……」
「そうやんな。服は上下とも綺麗やったのに、靴だけ、濡れて汚れてたやん。黄色っぽいシミがついとった。あれ、ジュースやと思うで。多分、崎本があの子を追いかけてる途中、どこかでひっくり返したんじゃないんか? それで、着替えたとか……違う?」
違うかと言われても……。
「ジュースこぼして、着替えたってこと?」
「さっき人混みの奥で女性の悲鳴みたいなのが聞こえたって言うてたやろ。あそこで誰かとぶつかって、ジュースを派手に頭から被ったんかもな」
「ほんまに……? でも、それだけであの服の色の違いの理由になるか?」
俺がまだ半信半疑でいると、環は呆れたように小さく息を吐いた。
「念のために、最終確認もした。俺があの子の目線に合わせて屈んだやろ。あのとき、あの子の髪から、ほんの少しだけ柑橘っぽい匂いがしたんや。この暑さで、柑橘系のジュース……。さっき俺らが飲んだレモンスカッシュみたいなのを浴びたんは間違いないと思ったわ。髪の毛の大部分は帽子で守れても、麦わら帽子やし、多少は着いたんやろな。残ってた匂いが、証拠やな。でも、服は綺麗だったし……これは着替えたんやなと思って」
俺は持っていた箸を止めて、まじまじと環の顔を見つめた。
「うわぁ……。俺、てっきり環が、泣きそうな女の子の緊張を和らげるために、優しさで目線を合わせてあげたんかと思っとった。ジュースの匂いを確認するために屈んどったんか」
環は一瞬、バツが悪そうに渋い顔をした。
「……最終チェックやん。まるで俺が心無い人間みたいに言うなや。あの子の言葉を信じるための証拠を探しにいっただけや」
「ごめんごめん。からかって悪かったって。でも、環にしてはやっぱり優しいなと思ったんよ」
少し耳を赤くして呉焼きを口に運ぶ環を見て、俺はニヤリとした。口では冷たく論理的に言っているけれど、あの状況で女の子を救おうとしたのは間違いない。半分以上は、彼の根底にある優しさからの行動だったはずだ。
「でもさ、いくら服が汚れたからって、この広い会場でたった十五分程度で都合よく着替えられるもんかね? 仮設のトイレもけっこう混んどった気がするし」
「ほら、あの子の言ってた『お父さんもお母さんも手が離せない』っていう言葉」
環は箸の手を止め、ステージの裏手に並ぶキッチンカーの列に視線を向けた。
「あの子の両親、今ここに出店しとるキッチンカーか屋台のオーナー、もしくはスタッフなんじゃないかと思ってな。この大盛況の祭りや、お昼時で忙しいスタッフなら、『手が離せへん』っていう状況に完璧に当てはまる。テントの構造によっては、裏の搬入スペースや車内でいくらでも着替えはできるしな」
「あぁ……! なるほど!」
「今日みたいにめちゃくちゃ暑い日は、焼きそばやカレーを売っとる店の人ら、みんな汗だくで働いとったやろ。大人だって着替えが欲しいくらいや。もしかしたら、子どもが店を手伝う可能性もあるし、子供の分も予備の着替えを何着か車に積んでおいても不思議やない。だからあの素早い黄色いTシャツと黒いズボンへの変身や」
環の淀みのない推論を聞いているうちに、パズルのピースがカチリ、カチリと音を立てて噛み合っていくような快感があった。
「で、極めつけが、最後の『ジュース被って平気やったん?』っていう質問やな。もしあの子が財布を盗もうとしとる悪い子やったら、あの質問はさすがに、『え? 何のこと?』って戸惑うはずやん。でもあの子は迷わず『お着替え持ってきとったけん大丈夫だった』って答えた。これで完全に、あの財布はあの子のもので、さっき服を汚して着替えた本人やっていう証明が完了したわけや」
俺は深いため息をついた。
「なるほどな……。そうやってカマをかければ、誰も傷つけずに確かめられたんか。あ、でも俺はそもそもジュースがこぼれたことにすら気づいとらんかったけん、その質問は逆立ちしても出てこんかったわ」
「崎本が隣でフリーズして何も言わへんから、俺がどうにかせんとあかんと思ってな。本部テントの前で、どういう順番で女の子にアプローチして確かめようか、頭の中で何パターンもシミュレーションしとったんや」
環は少し気恥ずかしそうに、頭をポリポリと掻いた。
環が宇宙へトリップしたようにボーッとしていたのは、俺を助けるために脳内で高速の推理回路を回していたからだったのか。
「環がいてくれてほんまに良かったよ。俺、あのとき頭の中で『さっきまでどんな服着てた?』とか『服、着替えたん?』とか直球で聞こうとして、でもそれってどうなんじゃろうってめちゃくちゃ迷っとったんよ」
それを聞いた環は、あからさまに嫌そうな目で俺を見た。
「うわ……。それはやめといて正解やない? 男子高校生が小さな女の子に『さっきまでどんな服着てた?』って、客観的に見て完全に変質者やん。聞かんでよかったな。威圧的やし……純粋に気持ち悪いわ」
「やっぱりそう思うよな……! いや、ほんまに口に出さんくて良かったわ……」
自分の直感が正しかったことに安堵しつつ、俺は手元のペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「でも、環の言う『あの子の両親がキッチンカーの出店者』っていう説、俺も合っとる気がするわ」
「ん? なんでそう思うん? そっちは今のところはまだ俺の憶測に過ぎへんで」
「さっき拾った財布の中身をチラッと見たとき、百円玉ばっかりの小銭がたくさん入っとったんよ」
「小銭……あぁ、確かに。そこは俺、全然気にしてへんかったわ」
「こういうお祭りとか屋台ってさ、一万円札とか五千円札とか、下手したら千円札でもたくさん使われると、お店側としてはお釣りの準備が大変じゃけん、できたら避けてほしいって思うじゃろ。じゃけん、お店側の気持ちが分かる両親が、子供に他のお店で買い物させる用に、最初からお店の金庫から百円玉をたくさん持たせとったんじゃないんかね。同業者同士、大きいお札を出すのはちょっと気が引けるし。……まぁ、これも俺の憶測じゃけどね」
環は少し驚いたように目を見張り、それから小さく微笑んだ。
「……ふーん、お釣りの事情か。それは出店者の心理として大いにあり得るな。崎本のそういう、変に気持ちのわかる部分での視点は面白いわ」
「変に、は余計じゃろ。つい、気持ち考えてしまうんよなー。自分だったら、とか」
「考えすぎて、そのせいで女の子に何も言えんかったんやろ?」
環はくすくすおかしそうに笑った。
「まぁ、何はともあれ。あの女の子が服を着替えたことと、財布の持ち主、ってわかってよかった。それで良しとしようや」
「そうじゃね。環、ほんま助かった。ありがとう!」
俺が素直に頭を下げると、環はふっと満足そうに口元を緩めた。
「……まぁ、最初から崎本が人混みでへばらずに、あの子に追いついていれば、こんなに頭使わんで済んだんやけどな」
「うっ……! それは言うなや、こっちだって必死にやったけど、人が多すぎたんよ!」
ひとしきり笑い合い、綺麗に空になった呉焼きのパックを片付けようと立ち上がった、その時だった。
特設ステージの方から、大歓声と、一段とボリュームの上がったダンスミュージックが鳴り響いた。
「しまった! もうそろそろ『呉氏』のステージが始まる時間じゃん! 環、のんびり食べとる場合じゃない、ステージ行くぞ!」
「えっ、ちょ、ちょっと待ってや崎本! 急すぎる! 俺、まだ最後のひと口残っとるって……!」
「急いで! ほら、急がんと終わってしまう!」
俺は慌てて環の腕を引っ張り、ステージへと向かって芝生を走り出した。
「まったく、いっつも穏やかなのに、なんでゆるキャラのことになるとこんなに強引になるんや」
環の文句が聞こえたけど、俺は聞こえないふりをして、環をステージ前まで連れ出したのだった。




