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「お待たせしました、呉焼き二つね! 熱いけん、気をつけて!」
俺の一つ前に並んでいた女の子へ、威勢のいい店員さんの声とともに、ずっしりと重量感のありそうなパックが差し出された。焼き立ての呉焼きを受け取ったばかりの女の子が、お釣りを受け取って身を翻す。
「よし、次はやっと俺らの番――」
わくわくと胸を期待に膨らませ、俺が一歩前に足を踏み出そうとした、その時だった。
女の子のポシェットの隙間から、何かがポトッと地面に落ちた。
足元に転がったのは、小さな透明な財布だった。
「あ」
待って! と、声を上げるより先に、俺の身体が動いていた。咄嗟にかがんでそれを拾い上げる。指先に触れたのは、ナイロンケース。じゃらじゃらと、小銭ばかりが入っている。
俺はかがんだ姿勢のまま、女の子が去っていった方へと視線を走らせた。
うごめく人混みの隙間に、移動する彼女の姿がちらりと見えた。
麦わら帽子に、ひらひらと揺れる鮮やかな青いスカート。間違いない、あの子だ。人混みに遮られて顔自体はまったく見えなかったけれど。
「俺、ちょっと追いかけてくるわ!」
「おい、崎本!?」
環が引き止める声を背中で聞きながら、俺は手に持っていたペットボトルをリュックのサイドポケットにねじこみ、女の子を急いで追いかけた。
小さな子どもになら、今すぐ走ればすぐに追いつけるはずだと思ったのだ。
――けれど、現実は甘くなかった。
「あ、すみません! ちょっと通してください!」
俺が飛び込んだのは、身動きも取れないほどに密集した人間の壁だった。お目当てのキッチンカーに並ぶ列、ステージへと急ぐ集団、グッズを両手に抱えた家族連れ、仮設トイレから長蛇の列。それらが複雑に交差するエリアで、俺の体は、嫌というほど人の壁に阻まれた。
「すみません!」
人とぶつかり、その度に頭を下げながら、必死にあの麦わら帽子を探す。
しかし、女の子は小柄な分、大人の体のわずかな隙間をすいすいとすり抜けるようにして、どんどん前方へ進んで行ってしまったようだ。正直、もう女の子は見えない。俺が一人を避ける間に、彼女との距離は絶望的に開いていく。
どこだ!? 青いスカートは――。
焦りで視界が狭くなる。そのとき、少し先のキッチンカーが並ぶあたりで、大人の女性の鋭い声が響いた。
「きゃあ!」
「大丈夫!?」
大人の女性の声と、周囲のどよめき。
そんなに遠くない場所で何かトラブルが起きたのは分かった。けれど、高身長の大人たちに視界を遮られた俺の場所からは、そこで何が起こったのか、誰が当事者なのか、全く見えない。
見えないからこそ、自分が女の子に近づけているのか、それとも完全に引き離されているのかも分からない。
人混みを、強引に、がむしゃらに掻き分けて、ようやく少し開けた広場へと抜け出したとき。
俺は、完全に足を止めて立ち尽くしていた。
「嘘じゃろ……。どうしよう、これ」
肩を激しく上下させながら、あたりを360度きょろきょろと見回してみても、俺が追いかけていた麦わら帽子の女の子も、青いスカートの女の子も、どこにも見当たらなかった。
完全に、見失ってしまった。
手の中にある財布が、やけに重く感じられる。
俺はポケットからスマホを引っこ抜くと、震える指先で環にメッセージを送った。
『さっきお好み焼き買った店から見て、ずっと左側に歩いてきて』
送信した瞬間に、画面の文字が「既読」に変わる。
ほんの数分後だった。
「……崎本っ!!」
人混みを割るようにして、凄まじい勢いでこちらに突っ込んでくる影があった。環だった。
いつもならモデルみたいに涼しい顔をして歩くあの環が、前髪を完全に乱し、顔を少し赤くして息を切らせている。その手には、二人で買った呉焼きのパックが、潰れないように細心の注意を払われつつも、不格好に抱えられていた。
「崎本……急に走り出すな言うたやろ……!」
環は、激しく肩を上下させながら俺を睨みつけてきた。普段のクールな仮面が完全に剥がれ落ちている。
俺を追いかけるために、この人混みの中を全力できてくれたのだと分かって、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
「ごめん、環……。でも、財布……」
「……渡せたか?」
環は呼吸を整えながら、鋭い目を向けてくる。
「渡せんかった……。けっこう頑張って追いかけたんじゃけど、人混みで見失ったわ。なんか途中で誰かの悲鳴みたいなのも聞こえたし、何がなんやら分からんくなって……」
「まじかぁ……」
環は天を仰ぎ、深く、重いため息をついた。
改めて、俺は手の中の財布を見つめた。
それは、ゆるキャラ『呉氏』のイラストがプリントされた、ビニール製の小さな財布だった。チャックの端のほうが少し擦れており、いかにも小さな子供が大切に、毎日持ち歩いている形跡がある。そっと動かすと、中からチャリチャリと、決して多くはない、けれど、その子にとっては大金であろう小銭の音が響いた。
「ここでずっと立ってても仕方ないやろ」
環が髪をかき上げながら、いつもの冷静な口調を取り戻して言った。
「この規模の祭りや。臨時の落とし物センターとか、運営が統括しとる本部があるはず。そこに持っていって、大人に保管してもらおうや。その方が、あの女の子が気づいたときに見つかる確率も高い」
確かに、女の子の顔すらまともに見ていない今の俺たちにできることは、落とし物としてこの財布を公的な場所に届けることくらいだ。
「そうじゃね……。ええと、それなら運営テント、どこじゃったっけ。入ってきたゲートの近くにあったっけ?」
「いや、確かメインステージの裏手、大和ミュージアム側の芝生広場の方に白い大型テントが並んどったはずや。そっち行ってみよう」
環の的確な記憶力に頼りながら、俺たちは再び歩き出した。
歩きながらも、俺の頭の中はさっきの光景でいっぱいだった。
「なぁ環、さっき俺が追っとる途中、大きい声が聞こえたんよ。あれ、なんじゃったんじゃろう。環も聞いた?」
「さっき俺らがせとうちレモンスカッシュ買った店あたりから聞こえてきたけど。誰かがぶつかったんちゃうかな。ちゃんと確認してへんわ」
「あの子、何かトラブルにでも巻き込まれたんかね」
「知らん。けど、あの人混みや。小さな子供が一人で走っとったら、誰かとぶつかることぐらいは想像がつくな。まあ、普通に大人同士がぶつかったんかもしれんけどな」
「……もしそうだったら、怪我とかしとらんとええけどな」
「むしろ、今ごろ、財布を落としたことに気づいて、パニックになっとるかも。どっちにしろ、早く届けた方がええ」
人混みを迂回するようにして芝生広場へ向かうと、環の言った通り、いくつかの白いパイプテントが並ぶ「運営本部」が見えてきた。メガホンを持ったスタッフや、無線イヤホンをつけた忙しなく動く大人たちが集まっている。
テントの一部には長机があり、ここなら財布を渡せそうだ。
「すみません、落とし物なんですけど……」
俺は、ポケットからあのビニール財布を取り出した。それから、長机に向かって一歩踏み出したとき。
まさにその瞬間だった。
「それ、私の! 私の財布です!!」
背後から、鼓膜を突き刺すような、切羽詰まった大きな声が響いた。
「え?」
弾かれたように振り返り、声の主を視界に捉えた瞬間、俺は激しく困惑した。
そこに立っていたのは、一人の女の子だった。おかっぱ頭に、くりくりとした大きな目。
……けれど、決定的に違う。
さっき俺が人混みの中で必死に追いかけたあの「後ろ姿」は、麦わら帽子をかぶり、鮮やかな青いスカートをなびかせていたはずだ。
しかし、目の前にいる女の子は帽子をかぶっていない。衣服は黄色いTシャツに、黒いタイトなレギンス姿。靴だけが少し汚れている。さっきの青いスカートという涼しげな色からは、およそかけ離れた、まったく別のコーディネートだったのだ。




