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「じゃあ、重川さん。今度オープンしたら、絶対にまた来ますから!」
喫茶店の入り口までわざわざやってきて見送ってくれる重川さんは、少し照れたように、けれど力強く頷いた。
「ああ。また来い。次は、メニュー表を用意しといてやる」
「あ、あの! 娘さんのケーキもまたメニューに入るんですか?」
俺が期待を込めて聞くと、重川さんはふっと笑った。
「入るに決まっとろう。あいつ、近所のケーキ屋で働いとるんよ。そこから仕入れる予定じゃけん、楽しみにしとけ」
重川さんは、チラリと胡蝶蘭を見た。そうか、もう一つの胡蝶蘭は、娘さんの働くお店の名前だったのか。
「楽しみにしてます。俺、この近くのアパートに一人暮らしなんで、オープンしたらすぐに来ますね。……珈琲、本当に美味しかったです」
環も短く、けれど丁寧にお辞儀をした。手には、捌かれた魚の入ったビニール袋が揺れている。その隣で末永さんが、「ガハハ!」と豪快に笑った。
「二人とも、今日はほんまにありがとうな! オモちゃんの背中、ええ感じに押してくれて助かったわ。俺も、波止で見たとき、ピーンときたんよ。ピンクにピントが合っとったちゅうことじゃ! 今度会ったら、俺がええもん奢っちゃるけん!」
怒涛の勢いで話すから、重川さんのオヤジギャグに笑う隙もない。本当にパワフルな人だ。
「あ、いえ、そんな……」
「ええんよ、ええんよ! 二人ともとにかく気をつけて帰れよ!」
カランカラン、と軽やかなベルの音を背に、俺たちは紗羅を後にした。
外に出ると、いつの間にか呉の空は薄いオレンジ色から、深い群青色が混じり合うマジックアワーへと移り変わっていた。潮の香りが混じった湿り気のある風が、頬を撫でる。
路地裏を抜け、駅の方へと続く道を、俺と環は並んで歩き始めた。駅に着く手前に環の住むアパートがあるはずだから、もうすぐ、今日はお別れだ。思えば長い一日だった。
しばらくの間、俺たちの間に言葉はなかった。ただ、ざりざりとアスファルトを擦る靴の音だけが聞こえる。
「……崎本、その、悪かった。ごめん」
ふいに、隣を歩く環が口を開いた。前を向いたまま、どこか落ち着かない様子で自分の鞄のチャックをいじっている。
「ん? なに」
俺が首を傾げると、環は一度足を止め、それから絞り出すような声で言った。
「ピンクのシャツを見て、『オシャレだ』なんて言ったこと。ほんまにオシャレだとは思ったんよ。思ったんやけど……でも、もしも崎本の服の色が青色だったら、俺はわざわざ、言わんかったかもしれん」
チャックを触る手を止め、環は珍しく真っ直ぐに俺を見つめてきた。その眉が、また八の字になっていて、後悔の色が浮かんでいる。環はわかりやすくて――素直な人間なんだな。
「なんだよ、そんなことか。ええよ、気にしとらんよ」ふっと笑いが込み上げてきた。
「俺だって、重川さんたちを見て、『海の似合う精悍な男』とか勝手にイメージを作っとったもん。これも思い込みに近いじゃろ」
「崎本のそれは、相手を傷つけてないやん。俺は崎本に嫌な思いさせたやん……」
それは少し違う。嫌な思いじゃなくて、俺の気持ちは「恥ずかしさ」に近い。それに、誤魔化したのは、俺に勇気がなかったからだ。
「っていうか、環に『オシャレだ』って言われたのは、実は結構嬉しかったんよ? 恥ずかしさが勝ったけん、変に誤魔化したけどさ」
俺は自分のピンク色の袖を見つめた。夕暮れの光を浴びて、それは今、昼間よりもさらに温かい色に見えた。
「ほんまごめん」
「これ以上謝ってきたら逆に許さんわ」
笑って釘をさせば、環は少しだけ目を細め、それから「分かった」と、表情を緩めた。
再び歩き出しながら、俺はさっきの喫茶店での光景を思い出していた。
重川さんと末永さん。
ぶっきらぼうで不器用な店主と、声が大きくてお節介な建築家。
すごいな、高校からの友達って言っとったけど。
「重川さんと末永さん、めちゃくちゃいいコンビだったな」
「それは分かるわ」
続けて俺は、「俺たちもあんな風になれるかな」と言いそうになったが、やめた。これを言うには、まだ早い気がする。それに、その答えは相手に求めるものじゃない。俺が自分の中で持ち続けておけばいいもののような気がしたから。
代わりに――「じゃあ」と言って別の道へ歩いていきそうな環を呼び止めた。
「ねえ、環」
「なんや」
俺はふと思い立って、ずっと心の中にあったことを口にしてみることにした。勢いで言ってしまおう。
「環ってさ、俺のことずっと『崎本』って呼ぶよな」
環は不思議そうに小首を傾げる。
「それが崎本の名字やん。何か問題でも?」
違う違う! 問題とか、そういう問題じゃないんだ。
「俺だけ名前で呼んどるけん、環も呼びたかったら名前でいいよって言っとこうと思って」
環から、言い出しそうにないから、俺から言ってみる。我ながら、あえて聞くなんてアホらしい提案だとは思った。でも、今日は特別な日だったから。
一応。そう、あくまで念のため。環が呼びたくなったときに備えて、こう言っておいてもいいかなって。
環は、じっと俺の顔を見つめた。
その沈黙が、やけに長く感じられる。呉の海を渡る風が、二人の間を通り抜ける。
そんなに沈黙せんでも! 先に俺が口を開く前に、環が口を開いた。
「……『洋』か」
環が、実験でもするかのように、小さくその名前を呟いた。
俺の心臓が、ドクンと跳ねる。
「そうそう、それ。どう?」
期待を込めて待つ俺に、環はふっと視線を逸らし、意地悪そうな、それでいてどこか照れたような笑みを浮かべた。
「どうもせんわ。……やめとく」
「えっ、なんで!?」
「もう俺の中で、崎本は崎本やん」
そうなん!?
環のことだからどうせ崎本って呼び続けるだろうとは思ってはいたけど、いざ拒否されると、少しだけ寂しい気がする。俺はなんて自分勝手な人間だろう。
「でも」
環はピンク色に染まる空を見つめたまま、淡々と言い添えた。
「別に苗字で呼ぶか、名前で呼ぶかなんか些細な問題やん。末永さんなんか、重川さんの苗字から来たニックネーム呼んどったし。重川さんも、『末永』って呼ん出たやん。呼び方と、親しさはイコールじゃないこともあるやん?」
俺は、一瞬言葉を失う。環は自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。今のは、暗に「俺たちも、あの二人みたいになれる」と言ったことにならないか。もしくは、あの二人みたいに仲の良い二人って思ってるってことに。
「まあ、万が一、崎本の苗字が変わったら……名前で呼ぶことを検討してやらんでもない」
「何を偉そうに!」
つっこんだ俺を置いて、環は今度こそ歩き出してしまった。
その背中を見つめながら、不思議な感覚に包まれる。
もし本当にいつか、彼が俺のことを「洋」と呼ぶ日が来たら。そのとき、俺たちはどんな大人になって、どんな景色を見ているんだろう。
名前を呼ばれる日が楽しみなような、それでいて、今の「崎本」と呼ばれているこの時間が、かけがえのないものに思えて、寂しいような。
複雑な胸の内を隠すように、俺はわざと明るい声を出した。
「じゃあ、また月曜日! 学校で!」
それだけを言って、俺も環とは別の道へと足を踏み出した。一度だけ振り返ると、環の背中はもう夕闇に溶けかけていた。
辺りには、ぽぽぽと屋台の提灯に火が灯り始めていた。
呉の夜が始まる。
俺のシャツのピンク色は、暗くてもう誰にも見えない。




