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環は珈琲を飲みながら、顔をあまり動かさず、目だけをきょろきょろと動かした。彼はキッチンの奥、棚の隅々までを確認している。俺もそれに倣い、カウンター越しにキッチンを見つめる。
――分かった。違和感の正体、その二。
重川さんの娘さんは、この美しく美味しいケーキを作っている。それが事実なら、このキッチンにはあるべきものが足りない。
おたまやフライ返し、中華鍋……料理に使いそうな道具は完璧に揃っている。けれど、あんなに繊細なタルトやモンブランを作るのに必要な道具。ミキサー、泡立て器、ゴムべら、製菓用の抜き型……そういったお菓子作りの気配が、このキッチンからは全くと言っていいほど感じられない。もしかしたら収められているだけと思えなくはないが――極め付けは、オーブンだ。隅にあるのは、家庭用の小さなレンジとトースター。あれで何枚ものタルト生地やスポンジを焼くのは、物理的に無理がある。
重川さんの嘘。
――この店は、重川さんの娘さんの店ではない。
はっとして隣を見ると、環の瞳が「ようやく気づいたか」と雄弁に語っていた。
だけど、それなら。この店は――一体、誰のものだ?
俺が困惑している最中、環が重い口を開いた。
「重川さん。……親切にしてもらって、こんなことを言うのは本当に申し訳ないんですけど。……この店、重川さんのお店ですよね?」
環の眉が、八の字にぐにゃりと曲がる。環は決して、相手を追い詰めたいわけじゃない。彼の声が、緊張でわずかに震えているのが分かった。
「…………何を」
重川さんは、たった一言だけ発した。
けれど、環の追求は止まらなかった。
「俺、またこの店に来たいと思っています。重川さんの店なら、なおさら……」
これは追求というよりも、環の気持ちの吐露に近い。もし本当にここが重川さんのお店なら、また来たい。俺も同じ気持ちだ。
この店に来てから一番、長く重い沈黙が流れた。
壁にかけられた時計の秒針が刻む音だけが、真新しい空間に虚しく響く。
「……いくつか、気になったことがあって。最初は、カレイを煮るためにフライパンを取り出したときです。あの棚、写真に写っている娘さんの身長では、踏み台がないと手が届かない。けれど、重川さんが腕を伸ばせば、本当にちょうど取れる位置に設計されている。……ここにある全ての調理器具は、重川さんの身長に合わせて配置されています」
重川さんは口を開かない。ただ視線を伏せ、まな板の上でぎゅっと握り込まれた自分の拳を見つめている。
「だって、もしもあの写真の女性の方が、フライパンや中華鍋を振りながら、コンロの向こうにかかっているフライ返しを取ろうとしたら服が焼けそうですもん」
「環……」
「あともう少しだけ……」
環は息を整え、言葉を継いだ。
「この店が重川さんのものだと仮定して……どうして、オープンしないんですか? 設備は完璧だし、ガスも通る、水も出るし……もしかして、お手洗いが故障しとるんかなと思ったんですが……さっき普通に案内されましたし、使えました」
重川さんの肩が、ぴくりと揺れた。
「店頭に飾られた胡蝶蘭。あんなに立派な花が贈られているということは、本来はもうオープンしていてもおかしくない時期のはずです。それを六月まで待っていたら、花は全部枯れてしまう。……それに、さっきの砂糖。ポットの隅に少しだけ湿気で塊ができていた。あれは、昨日今日に入れたものじゃない」
環は、重川さんの目を真っ直ぐに見据えた。
「本当は、もっと前に開店しているはずだったんじゃないですか。……何か、お店を開けられない、決定的な事情でもあるんですか? 俺はそれが分からなくて」
「……お前、なかなか鋭いな」
絞り出すような重川さんの声。
「……故障なんて、しちょらん。……店は、俺が開けようと思えば、いつでも開けられる」
「だったら、なぜ」
言葉に詰まる重川さんの表情を見ていて、俺は不意に、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚に襲われた。
これは多分論理的じゃない――気持ちの問題だ。
朝から重川さんが、俺をチラチラと見ていたこと。この内装。そして、「娘の店」という嘘。
それらが、一つの線で繋がっていく気がした。
「……環。それなら、俺、理由が分かるかもしれん」
俺の言葉に、重川さんが弾かれたように顔を上げた。
「そっちのボウズは……分かってくれるんか」
重川さんは、泣き出しそうな、それでいて俺に笑顔を見せた。
ああ、これは多分。
俺は力強く頷いた。
「えぇ。僕も今朝、環に全く同じことをしましたから」
「は?」
環が素っ頓狂な声を上げる。俺は苦笑いしながら、怪訝な顔をする相棒を正面に見た。
「環、今朝俺のこのピンクの服を見たとき、なんて言ったか覚えとる? 『オシャレやん』って言ったよな。あれ、めちゃくちゃ恥ずかしかったんよ。分かる?」
「なんで」
「もしもこのシャツが青色だったら? わざわざ俺に『オシャレやん』って言ったか? ……多分、言わんじゃろ。『男がピンクの服を着るのが珍しい』って思ったけん、わざわざ言ったんかなって思ったんよ。だから、この服を買った理由を、妹のせいにして誤魔化した」
もちろん、これは俺の自意識の問題でもある。『今日はピンクを着てるなぁ』って、俺自身がソワソワしていたから、環に声をかけられて、勝手に恥ずかしくなって、勝手に揶揄われたんかと思ってしまっただけなんだ。
「それが、重川さんと何の関係が……」
「関係大ありだよ」
俺はカウンターの奥、立ち尽くす重川さんに向き直った。
「多分、重川さんはこの店が……自分の趣味で、自分の意志で、こんなにピンクにしたんだって言えんかったんじゃないんですか。今日、偶然会っただけの俺たちに、咄嗟に『娘の店だ』と言ってしまった手前、本当のことを言い出せなくなった。……重川さん、違いますか?」
重川さんの、固く握られていた拳がゆっくりと解かれた。
「……いらんことを言ってしまった、と思ったんよ。まさか今日、店に誰かを呼ぶとは思ってなかったけんな。……この店を開くには、まだ俺の覚悟が決まっとらんかった。そこへ来て一回ついた嘘を、『やっぱり自分に素直になりたかったおっさんの店です』とは、なかなかに言い出せんわ」
重川さんは自嘲気味に笑って、天井を見上げた。
「この店も、本当ならそっちのボウズが言うように、もうオープンしとったはずだった」
重川さんは目を伏せた。
「古くなった設備を一新するときにな。人生で一回ぐらい自分の趣味に生きてみようと思ったんじゃけど。いざリニューアルした店を見て怖気付いてしもうたわ」
「それだけの理由……? そんな、好きな色なら隠す必要ないやん」
隣で環が呟く。俺は慌てて彼の袖を引いた。
「環、『それだけ』なんて言うなよ。俺、怒るで」
自分の好きなものを否定されたときの、胸が重くなる気持ち、環にも分かってほしい。
「今はどんな色を好きでもいいよな。男が可愛いものを好きって言ってもおかしくない時代じゃん。そんなこと、頭ではわかっとるよ。でも、実際俺ら高校生でも、『ピンクが大好きなんじゃ』って胸を張って言ったら、クラスに何人かは絶対からかってくるやつがおる」
重川さんは、何十年もずっとその不安と戦っていたんじゃないかと思うと……そして、怖気付いてしまったのかもしれないけど、自分の好きを貫くと決めた勇気を思うと……俺は胸が熱くなる。
自分の服の袖を、少し強めにつまんで見せる。
「この服、俺は高校生になってようやく着れるようになったんですよ。中学のときは今よりもっと恥ずかしくて、ずっとクローゼットの奥に隠しとって。……どうして、ただ好きなものを好きと言うだけのことが、こんなに難しいんですかね」
へらりと力なく笑って見せた俺を、環が揶揄ってくることはなかった。環はただ、深く、何かを咀嚼するように黙り込んでいた。
そのとき。
「オモちゃん! もう話せたかー!?」
張り詰めた空気を物理的に叩き割るような勢いで、ドアが開いた。カランカランと激しくドアベルが鳴り響き、末永さんの雷鳴のような声が店内に響いた。俺と環は、バケツから飛び出した魚のようにびくりと体を跳ねさせた。
「……声がでかいわ。話せたも何も……お前、今の今まで外におったろうが。何も聞いとらんじゃろ」
重川さんは呆れ果てた顔で、親友を見据える。
「そこは雰囲気よ、雰囲気! どうせオモちゃんのことじゃ、このお店が誰のもんか速攻でバレたんじゃろう? 昔から、嘘が下手くそなくせにのぉ! あれ? 違うのか?」
末永さんの豪快な笑い声に、重川さんは深いため息をついた。
「……速攻じゃない。ついさっきだ」
子供のような、小さな抵抗。俺と環は、思わず吹き出した。
末永さんは満足げに頷く。
思えば、最初の波止場での出会いから、随分打ち解けたものだ。
「ほら見んさい! 言うたじゃろうが、誰も気にせんって。この二人がこの店を……オモちゃんを否定したか?」
俺たちは二人でふるふると顔を横に振った。末永さんは、真っ白な机の端の部分を愛おしそうに撫でた。
「今はそんな時代じゃないって、前に俺と話したじゃろう。それに、俺がお前のこだわりを全部形にするのに、どれだけ苦労したか分かっとるんか!」
建築業を営んでいるという末永さんは、重川さんの本当の願いを唯一知り、それを応援した理解者だったのだ。
「このピンクのシャツのお兄ちゃん――崎本くんじゃったか。彼に聞いたんか? オモちゃん、崎本くんがピンクのシャツ着とったけん、羨ましかったんか、仲間がおったと思ったんか、ずっと見とったじゃろ。オモちゃん、いい加減に覚悟を決めてこの店をオープンしんさい。好きなもんを、堂々とみんなに見せつけてやれや。俺は、ずっと応援しとるで」
「……お前に言われんでも、分かっとるわ」
重川さんは、末永さんに対してぶっきらぼうな口調を崩さない。けれど、その目は微かに潤み、どこか吹っ切れたような晴れやかな光を宿していた。
「あの、俺……このお店、すごくいいと思います。このタイルの色も、重川さんの淹れるコーヒーの香りも」
俺がそう言うと、隣で環も、静かに、けれど力強く頷いた。
「……俺も。また来たいって思ったから、重川さんの店ってちゃんと知りたかったから色々言っただけで……。失礼なことを延々とごめんなさい。また絶対来たいです」
「オモちゃん、よかったな。少なくとも、ここに三人、オモちゃんの好きなようにやったらいいってやつがおるぞ」
「ほんま、失礼なことを言ってしまってすみませんでした」
環が再び謝ると、重川さんは首を振って答えた。
「いや、ええよ。言ってもらって、俺もスッキリしたわ。俺も、嘘ついて悪かったな。ちゃんとオープンさせるけん、また二人で来いよ」




