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先に箸をつけた環の口から、小さく感嘆の吐息が漏れた。
「……ん……美味い」
俺も続けて一口、身を運ぶ。
なるほど、これは美味い。父が作る野性味のある味とは違う。実家よりも少し甘さ控えめ、煮詰めすぎず、さらりと上品な煮汁がカレイの繊細な白身を際立たせている。生姜の香りが鼻を抜け、噛むほどに魚の脂が甘く溶け出した。
「重川さん、めっちゃ美味しいです!」
本当に箸が止まらない。
俺が感激して伝えると、重川さんは口角をほんの少しだけ上げた。釣り場にいたときの強面が嘘のような、照れくさそうな顔だ。
環はといえば、一丁前の評論家みたいに、一口ごとにうんうんと深く頷きながら、骨の隙間まで綺麗にさらっている。魚を食べなれているわけではなさそうだが、箸捌きがうまい。きれいに骨から身を剥がしている。
「重川さん、娘さんに譲ってからも、ここで一緒に働くんですか?」
またここでこんなご飯を食べられたらいいなと思った。俺が尋ねると、重川さんがぴたりと止まり、困ったように視線を落とした。
「いや……まだ、決まっとらん」
「そんな、勿体ないですよ! これだけ美味しいものが作れる人が引退するなんて。俺、重川さんの他の料理も食べてみたいですもん」
俺の勢いに押されたのか、重川さんはますます口を濁し、残った魚の処理を再開してしまった。
しまった。
俺も、今日が初対面だというのに、強く言いすぎたかなと反省する。まだまだ引退には遠い精悍な見た目をしているが、もしかしたら病気とか……そんな可能性を考えていなかった。
「重川さんには、重川さんの事情があるんやないか」
俺にしか聞こえないような声で、環が囁く。いつもの皮肉げな調子ではなく、どこか探るような静かな声。
くっ……まさか、人の気持ちに疎そうな環に「空気読め」と言われる日が来るとは。
「それなら、次のお店で出されるメニューとか教えてもらえませんか? 重川さんの娘さんのお店なら、美味しいものが食べられそうですし!」
俺が食い下がると、重川さんは「メニューは……」と一度言葉を切った。
「……まだ考え中で、メニュー表はないんだ。すまんな」
「じゃあ、いつ頃オープンなんですか?」
「オープンは……確か、六月ぐらいだったと思うが……」
――おかしい。重川さんの答えを聞きながら、胸の中に小さな、けれど無視できない引っかかりが生まれる。
自分の娘が店を継ぐ――しかも、あと一か月足らずでオープン予定。それなら、普通はもっと誇らしげに、あるいは親馬鹿なほどに宣伝するような気がする。新規顧客は大事だろうし。うちの親なら、間違いなく近所中にビラを撒いて「うちの息子が店を持つんよ!」と宣伝して回るだろう。息子の自慢、とも言ってもいいかもしれない。
なのに重川さんは、あまりにも消極的だ。何より、自分の娘の店の正確な開店日を知らないなんてこと、本当にあるのだろうか? 本当に忘れただけ?
「ごちそうさまでした。本当に美味かったです」
思考を巡らせる俺を尻目に、環がすっかり綺麗になった皿を置いて席を立った。
「……娘が焼いたケーキがある。口直しに出しちゃるけん」
重川さんはどこまでも親切なオジサンだった。
「ありがとうございます。その前に、お手洗いを借りてもよろしいですか」
「ああ、突き当たりを右だ」
案内された環が、静かな足取りで奥へと消えていった。
俺はもう一度、店内をじっくりと見渡した。
新装開店を祝う胡蝶蘭。笑顔のツーショット写真。ピカピカに磨かれたピンクや赤色の鍋たち。全てが新しい始まりを祝福しているのに、カウンターの中に立つ重川さんからは少しずつ違和感が滲み出ている。全部俺の気のせいだったらいいのに。俺は、自分の中に生まれた疑問を振り払うように頭を振った。
「……ケーキ、何か嫌いなものはあるか」
重川さんの声と一緒に、皿を準備するカチャカチャという音が響く。
「ないです! 何でも好きです」
「お手洗いに行ったボウズは?」
「環も、好き嫌いはないと思います。何でも食べますよ」
重川さんは短く「そうか」と答え、二つのケーキを運んできた。一つは、たっぷりと濃厚そうなマロンペーストが絞られたモンブラン。そしてもう一つは、艶やかな柑橘が宝石のように並んだタルト。
どちらも、隈なく美しいフォルムをしていた。呉の路地裏にある、まだ看板も新しい喫茶店で出てくるには、あまりに完成度が高すぎると思ってしまうほど。もちろん、良い意味だ。
「これ、喫茶店のメニューっていうより、専門店のショーケースに並んどるケーキみたいに綺麗ですね。……すごくケーキ作りが得意な方なんですねぇ」
「だろう。味もうまいぞ」
さっき、お店のオープンのことを尋ねたときは困ったような顔だったのに、今は嬉しそうだ。
それから、重川さんは「どっちがいい」と聞き、俺たちの前に皿を置いた。
戻ってきた環に先にケーキを選ばせると、彼は迷わずモンブランを指差した。それなら、俺は柑橘のタルトを。
フォークを入れると、サクッとしたタルト生地の中から、爽やかな酸味を帯びたカスタードが顔を出す。少しレモンが入っているのだろうか。……美味い。魚の煮付けも完璧だったが、このケーキもびっくりするほどレベルが高い。このケーキのために行列ができてもおかしくない味だ。というか、重川さんの娘さんの作るケーキをショーウィンドウに並べれば、それだけでもお店ができるだろう。
「これって……本当に、重川さんの娘さんが作ったんですか?」
不意に、環が何でもない様子で尋ねた。だけど、その質問があまりに唐突で無作法だったから、俺の心臓は跳ねる。
「ちょっと環、失礼だろ! 嘘つく理由がないじゃん」
「娘が作ったよ。それは本当だ」
俺の嗜めを遮るように、重川さんが言った。
「それは本当だ」? その言い回しが、なんだか妙に引っかかる。「嘘はついていない」と言い切るのではなく、限定的な肯定をされたような、そんな居心地の悪さがある。
ケーキを食べながら環を盗み見ると、彼もまた、フォークを止めてこちらをじっと見つめていた。
――どうやら、環も俺に言いたいことがあるらしい。けれど、重川さんの目の前で「重川さん、なんか怪しいよね」なんて話せるわけがない。
「……重川さん、ちょっと店内を回ってみてもいいですか? 壁紙とか装飾がすごく可愛くて、今後の参考にしたいっていうか」
環が突拍子もないことを言い出した。待ってました、と俺も便乗する。
「それなら俺も、近くで見たいです」
実際、可愛い装飾を近くで見たい気持ちはある。
「……まあ、いいが。大したもんはないぞ」
重川さんは少しだけ口角を上げた。メニューや開店日を尋ねたときは困ったような顔をしていたのに、やっぱり店を褒められるのは、嬉しいらしい。
俺たちはカウンターを離れ、入り口近くの壁際へ移動した。そこには、小さな額縁に入ったスイートピーの絵が飾られている。
「これ、スイートピーですかね。綺麗ですね」
あえて重川さんの方を振り向かず、大きな独り言を装いながら、小声で環に囁いた。
「環……さっきから、重川さんちょっと変だと思わん?」
「わかっとる。重川さんの、あの『嘘』のことやろ。何でこんな手の込んだ真似をするんか、ほんま意味が分からんで」
環は困り果てたように、細い眉を八の字に寄せた。
「え? 環は、何が嘘かもう分かっとるん?」
「はあ? 逆に、崎本は何が嘘か分かってないん? 違和感の塊やん、この店……というより、重川さんが」
「俺は……ただ、なんとなく不自然だと思っとるだけよ」
環は大きなため息をついた。
「はあ……まだそれだけか。あのな、多分重川さんは――」
「コーヒー淹れたぞ、飲め」
「はい! いただきます!」
カウンターから飛んできた声に、俺は反射的に直立不動で返事をした。ここでこれ以上の密談は無理と判断せざるを得ない。俺たちは大人しく席に戻るしかなかった。
戻り際、環が俺の耳元で、消え入りそうな声で囁いた。
「崎本は、この店気に入ったか?」
おかしなことを聞くもんだと思ったけれど、俺は力強く頷いた。
「もちろんよ。また食べに来たいわ。そのときに重川さんもおればええよな」
「俺も、そう思うわ。サンキュー」
「え?」
何が「サンキュー」なんだ? 色々端折りすぎて、訳が分からない。急にお礼を言われても困るじゃないか! ぽかんとする俺を置いて、環はさっさと席についた。
カウンターには、挽き立ての豆の香りが満ちていた。
「ブラックでいいか? それともミルクはいるか」
「いいえ、いりません」
「ミルク、ほしいです!」
ほう、環はブラック派か。俺はコーヒーも甘党なんだ。
重川さんは、小さなピッチャーに入ったミルクを一つだけ俺の前に差し出した。それを、躊躇なく珈琲へと投入する。本当はブラックを嗜む大人に憧れているが、この苦味だけはどうしてもまだ克服できない。――いつか、このコーヒーもブラックで楽しめるといいのだけど。
「砂糖なら、そのカウンターの端にあるポットを勝手に使え」
重川さんが指差した先には、ガラス製の小さなポットがいくつも並んでいた。環が手を伸ばし、その中の一つを手元に持ってくる。ポットの中に添えられた小さなスプーンを持ち上げると、思いのほか大きな、雪の塊のような白砂糖が掬い上げられた。
俺はそれをミルク入りのコーヒーへ落とし、ゆっくりとかき混ぜる。
「……なるほど」
不意に、隣でコーヒーを啜っていた環が、誰に言うでもなく呟いた。
何が『なるほど』なんだよ。さっきから思わせぶりな……。
俺にはまだ、見えていないのに。




