3-2
俺の数十匹のメバルたちと、環のタナゴを入れたクーラーボックスは思ったよりも重かった。重川さんのお店のある本通りまで歩くと、肩が痛くなってくる。
末永さんが去り際、ニヤリと笑って重川さんの肩を叩いた。
「ついでに重ちゃん、『あのこと』も聞いてみたらどうだ?」
末永さんは、一旦家に釣り道具を持って帰り、支度ができたらまた喫茶店に来てくれるらしい。
「……聞くわけなかろうが。早う帰れ!」
重川さんはぎろりと末永さんを睨みつける。けれど睨まれた方は、おどけたように肩をすくめ、俺たちに手を振って去っていった。「オモちゃん一人には、高校生二人は荷がオモいじゃろ!」と駄洒落を繰り出して。
二人は高校からの付き合いだそうで、重川さんは「ただの腐れ縁だ」と毒づいているけれど、その表情にはやわらかさがあった。
案内された喫茶店のは、呉の本通りから一本入った路地裏にある、レンガ造りのこぢんまりとした建物。色褪せた木の看板には、落ち着いたフォントで『喫茶 紗羅』と刻まれている。
「お邪魔します」
カランカラン、と乾いたドアベルの音が響く。
「えっ?」
思わず声が漏れ、俺と環は、文字通り固まった。
外観から想像していたのは、使い込まれた革張りの椅子や琥珀色の照明が灯るような、シックな純喫茶だったのに。
目の前に広がっていたのは――びっくりするぐらい可愛らしい、ピンクと白の世界だった。
壁一面を飾るのは、淡い桜色の可愛らしいタイル。ところどころにレース柄のタイルが組み合わせられている。テーブルは鏡面のように磨き上げられた真っ白な素材。
可愛い。あまりにも可愛いのだが、案内してくれた重川さんとのギャップが凄まじくて、脳の処理が追いつかない。
「……新装開店の際に、全部娘の趣味でリフォームされたんだ」
重川さんは気まずそうに顔を逸らし、俺たちをカウンター席へ促した。
入り口付近には、『祝・リニューアルオープン』と書かれた胡蝶蘭が、二鉢並んでいた。一つは、末永さんから贈られたもののようだ。もう一つは……どこかお店の名前のようだ。
レジ横を通り過ぎるとき、はにかんだ笑顔の女性――年齢差からしてきっと娘さんだろう――と、今よりも表情の柔らかい重川さんのツーショット写真も見えた。
「ほら、そんなにジロジロ見ずに座れ。今、魚を捌く準備をしてくるけん」
重川さんは、俺たちをカウンター席に座らせると、キッチンの中へと入った。
キッチンに置かれているフライパンはパステルピンク、棚に並ぶ重厚な鍋はル・クルーゼの鮮やかなレッド。
ピンクのフライパンやタイルに囲まれながらも、重川さんが包丁を握った瞬間、彼の背筋がピンと伸びた。さっきまでの、堤防で文句を言っていたオジサンではない。一瞬にして、彼は生真面目な料理人の顔になった。
「さて。まずはタナゴからだな」
銀色の天板の上に、俺たちの釣った魚が置かれた。タナゴにメバル、それからギザミ――ギザミは方言で、正式名称はキュウセン。まな板の上に並んだタナゴやメバルは、店の光を反射して銀色に輝いていた。
カウンターから俺たちにも手元がよく見える位置に、重川さんはまな板を据えた。それから、すっと柳刃包丁を魚の腹の部分に当てた。
「よお見とけ。魚の扱いは最初が肝心じゃ」
エラから迷いなく包丁を入れ、まだピチピチと微かに跳ねていた魚の息の根を止める。
「……あ」
横で見ていた環が、小さく息をのんだ。
そこからは、さらに鮮やかだった。シャッシャッシャッと小気味よい音を立てて鱗を落とし、腹を割いて内臓を手際よく掻き出す。その動作の一つひとつに無駄がない。俺の父親も魚を捌くのは見事なものだけど、重川さんを見ていると、さすが料理人は違うと言わざるを得ない。
「……なんか、コツはありますか」
環が僅かに身を乗り出す。
「そうだな……。腹を真っ直ぐに、迷わず切ることだな。できれば包丁はきちんと研いどるものがええな」
重川さんは、ほんの少しだけ口角を上げて答えた。
「お前ら、帰ってからこれを自分で煮付けて食うんじゃろ? だったら、ついでに美味い調理法も教えちゃるわ」
「ええ!? いいんですか? 門外不出の秘伝の味とかじゃないんですか?」
俺が驚いて声を上げると、重川さんは今度は明らかに、声を立てて笑った。さっきまで波止でムスッとしていた愛想のないオジサンとは、まるで別人のような、人懐っこい笑顔だった。
「秘密でもなんでもないわ。普通の調味料を使っとるし、レシピも家でやるやつと変わらんで。今日は特別に測って教えちゃるが、普段は目分量じゃしな。適当にやっとる」
重川さんはそう言って、棚のフックに掛けてあったステンレスの大さじスプーンを手に取った。
それから、醤油や酒、みりんを取り出した。どれも、スーパーで見たことのあるラベルの、極々一般的なものだ。
「ん……酒三、醤油二、みりん一、えーっと砂糖は……こんぐらいか?」
プロの料理人が計量スプーンと格闘している姿は、なんだか可笑しくて、俺はいつの間にか、自分が笑顔になっていることに気づいた。環の方も、いつもの気怠そうな雰囲気はなく、心なしか目がいきいきとしているように見える。
「よし、せっかく測ったんじゃ。俺と末永がさっき釣ったカレイの煮物をご馳走しちゃるわ。今はこれを食べて勉強して、夜は自分らでタナゴを煮付けてみんさい」
「えっ、そこまでしてもらって……」
「ええから座っとれ。若いもんが空腹じゃあ、頭も回らんじゃろう」
重川さんは俺たちの「はい」の返事を待たず、コンロの向こう側の壁にかかっている少し深めのピンク色をしたフライパンを手に取り、火にかけた。さっき合わせた調味料が放り込まれ、そこに厚めに切った生姜が一欠片投入される。
重川さんは、俺たちに背を向ける形になるが、なおも丁寧に煮付けのコツを伝授してくれる。
「生姜は、野菜コーナーにあるものを買って切ってから乗せるのが一番じゃが……家でやるんならおろし生姜のチューブでもええ」
カレイの切り身が、ぷつぷつと泡立つ煮汁の中に静かに沈められた。重川さんは使い込まれた木の落とし蓋を被せると、火加減を弱めてフライパンをじっと見守り始める。
「落とし蓋がなかったら、クッキングペーパーを鍋のサイズに切って真ん中に穴を開けて置けばええ。火事にならんように気をつけてな」
くつくつとカレイの煮える音が、心地よく聞こえる。甘い醤油の香が漂ってきて、思わず俺は腹を押さえる。腹が鳴りそうだ。お腹が空いてきた。
ここに来て、店内に初めて柔らかな静寂が訪れた。
ピンク色のキッチンからは、可愛らしい映えるパンケーキだとか、オシャレな盛り付けのパフェだとか、そんなものが提供されてきそうだが――今、俺たちの目の前にあるのは、捌かれた生の魚と、カレイの煮付け。そのギャップがあまりに不思議で、俺はつい店内をもう一度見渡した。
「このお店、本当に素敵ですよね。あそこの鍋の赤とか、カープのヘルメットみたいで元気が出るけん、好きだなぁ」
俺は重川さんの娘さんのセンスを褒めてみる。
「……ほんまにそう思っとるか?」
煮えるカレイを見張っていた重川さんの、少し苦々しさが混じるような呟きが返ってきた。
「そう思うかって……重川さんは、このデザインは反対なんですか?」
今度は環が、真っ直ぐに問いかけた。
「……さすがに還暦近い俺がこのピンクに囲まれて料理をしたり、コーヒーを淹れたりするのは、どうなんだと思ってな……」
「入ったときは、確かに『おっ』と思いました。外観の渋さとのギャップが凄かったんで」
俺は正直に白状した。けれど、もう一度店内を眺めると、あることに気づく。
「でも、ただ可愛いだけじゃないですよね。こだわりが凄いです! この壁に使われとるタイルも……これ、『名古屋モザイク』のやつじゃないですか? 特注のパステルカラーの」
「……ナゴヤなんやそれ。崎本、詳しいな」
「母親の影響。前にインテリア雑誌を見せられとったけん、ちょっとだけ分かるんよ。いい素材を使っとるけん、そんなに安っぽくないんじゃと思う。ピンクじゃけど、落ち着く感じもするじゃん?」
「確かにな……俺もピンク好きになってきたかも」
俺たちの会話に、重川さんは特に反応を見せなかった。ただ、くつくつと煮えるフライパンをじっと見つめ続けている。
「……さあ、できたぞ」
重川さんが落とし蓋を外し、フライパンを持ってこちらに向き直る。見事な照りを纏ったカレイの煮付けが現れた。
呉の潮の香りと、甘辛い醤油の匂い。白いテーブルの上には不釣り合いに思えるほど、本格的な海の幸が運ばれてきた。




