3-1
「このお店、本当に重川さんの娘さんのお店なんですか?」
環の言葉に、キッチンに立つ重川さんがびくりと肩を揺らした。
――なぜ俺たちが、可愛らしい内装の喫茶店で、強面のオジサンと会話しているのか。しかも、こんな不穏な会話を。
その理由は数時間前、五月の爽やかな波止場での、魚釣りから始まっていた。
***
「ほんまにこれ使うん?」
静かな波止場に、環の心底嫌そうな声が響いた。
「環、虫とか好きじゃん。ゴカイもいけるじゃろ」
俺たちの足元にある小さな木箱には、大量のゴカイが入っている。
「アホか。ゴカイは環形動物で、昆虫やない! 分類学上、全く違う生物やん」
環形動物も節足動物も、脊椎がない点では同じだろ! そんな言葉で一蹴してしまうのは、生物に対する冒涜だろうか。いや、勝手に名前をつけてカテゴリに押し込んでいること自体、人間のエゴだ。ゴカイからすれば、自分がどこのどんなカテゴリーに所属している生物かなど知ったことではない。
俺は環の言葉を無視して、うねうねとのたうつゴカイを指先でつまみ、環の釣り竿から垂れる針に刺した。そして、針先を隠すように、くねっと曲線に沿わせる。
「よし、つけ終わったけん。やってええよ」
環は怪訝そうな顔をしつつも、ゴカイのついた針を、ぽちゃんと海へと投げ入れた。
本日、絶好の釣り日和。五月の太陽は思ったよりも強くて、俺はシャツの袖口で汗を拭う。
環が休みの日の予定を「特にない。暇、と言えなくもない」などと、暗に誘えと言わんばかりに仄めかしてくるものだから、俺は環を呉の海へと連れ出した。
環ほど生物に詳しいわけではないけれど、釣りは俺の幼い頃からの趣味だ。昔は父と連れ立って堤防へ行っていたが、高校生にもなれば一人でも楽しめる。
今日の釣りは、延べ竿を使った「探り釣り」。釣り糸の先に小さな針があり、そこにゴカイや小エビをつけて、磯に潜む魚を狙う。ただそれだけのことだ。仕掛けは全部俺が(正確に言えば、俺の父が)準備した。
釣りが初めての環は、ただ糸を垂らして、魚がかかるのを待ち、それを釣り上げるだけ。
……なんだけど。
「全然釣れんやん」
さっきから環は、俺の横で文句ばかり垂れている。
環は、水色のストライプのラフな長袖シャツに、ゆったりとしたワイドジーンズ。背の高い環に似合っている、爽やかな五月の休日にふさわしい、モデルのような格好だ。
それに対して、俺は無地のピンクの長袖シャツに、ミリタリー柄のベスト。このベスト、ハサミや重りを入れるポケットが山ほどついていて、釣りには最高に便利な代物だ。ただし、モデルのような環と並ぶと、俺だけ妙に現地の人感が強い気がする。
「崎本、私服はなかなか攻めとるな」
「……どこが」
「ピンクに、ミリタリー柄のベスト合わせるのは攻めてる方やん。崎本は似合っとるけど、俺はピンクとか着れんわ。チャラいとか言われそうで怖い」
環は一人でうんうんと頷いている。今日の爽やかな格好から言えば、環もそれなりに服装には気を遣っているのだろう。まさか、俺のファッションを評してきたのは予想外だったが。
環に評され、一瞬俺のセンスが揺らぐ。このファッション、釣りのスタイルにしてはオシャレな方だし、そんなに変ではないと思うけど。
「そうかな? 環も明るい色似合いそうじゃけど。黄色とか。まあ、俺のこの服装は妹に勧められて買ったやつじゃけん。服買うときに、何でか妹と母親もついてきたんよ」
「崎本、妹おったんか。通りで……」
何が、どこが「通りで」だ。それはどういう意味だと聞きたいのを堪え、俺は、ぶつぶつと言い始めた環を、釣りの世界へ引き戻す。
「環、ほら。ちゃんと釣り竿に集中しとかんと」
言いながら、俺も自分の釣り竿へと集中する。
……来た。
魚が餌をつつく振動が、竿を通じて手のひらにコツコツと伝わってくる。この一瞬のタイミングに合わせて竿を引くと、魚の口に針が掛かる。
俺は、釣り竿をぐいっと雲一つない青い空に向かって引いた。
「よっしゃ!」
何十匹目かのメバルが釣り上がる。
「崎本ばっかやん……。海の中で、俺は差別されとるんちゃうか」
恨めしそうに呟く環。
同じ場所なのに俺ばかりが釣れるのは、ひとえに経験値の差だ。環の竿にも反応はあるのだが、釣り竿を引くタイミングがわずかに早かったり遅かったりで、まだ一匹も仕留めていない。
堤防には、俺たちの他にもう一組、五十代くらいの精悍な男性二人が、のんびりと仲の良さそうに釣りをしている。二人とも、日焼けした肌に鋭い眼光。いかにも海が似合うベテランという風情で、投げ釣りでカレイを狙っている。
……さっきから、そのうちの一人がこちらをチラチラ見ているのが気にかかる。環と二人で来ているのに、俺ばかりがメバルやギザミを次々と釣り上げているのを、不思議がっているのだろうか。
「なぁ、いつまでやるん? 飽きた」
「環、せめて一匹釣ってからやめようや……」
生物部で体験した標本作りにはあれほど没頭していたというのに、環ってやつは! 釣りに対してはなんて堪え性のない人間なんだ!
だけど、全く釣れないのは確かに面白くないだろう。その気持ちはよく分かる。
「環、一緒にやってみよう。俺が合図するけん」
俺は環の隣に立ち、彼の握る釣り竿の先をじっと見つめた。竿の先が、ピクピクと微細に震える。
――来る。
「今!」
穂先がグッと沈み込んだ瞬間、環が竿を引いた。
「かかった……!」
環の驚いた声が波止に響いた。
「環、バラすなよ! ゆっくり、落ち着いて!」
竿が右へ左へと、翻弄される。
魚も必死だ。ここで捕まれば命が終わるのだから、その抵抗は凄まじい。
「よし、弱ってきたぞ。ゆっくり巻いて」
海面に銀色の魚影が踊った。
最後の方は、環も余裕をもってリールを巻く。
釣り上げたのは、手のひらサイズのタナゴだった。
「……あんだけ引いたんやからもっと大物かと思ったのに、意外と小さいな」
「でも、環が初めて釣った魚じゃろ? 今の時期のタナゴは脂が乗ってうまいし、大成功じゃん」
俺が言うと、環は「まあな」と満更でもなさそうに口角を上げた。決して気を遣って大成功と言ったわけじゃない。五月のタナゴは本当にご馳走なのだ。
環の嬉しそうな様子を見て、安堵する。誘った手前、全く釣れないのは申し訳ないと思い始めていたからだ。
「それで。これって、この後どうするん?」
環がタナゴを人差し指でツンツンと突いた。
「捌けばいいよ。内臓を取って、煮付けにするんがおすすめじゃね」
「捌くのは、どうやってやればいいんや。専門の道具がいるんか?」
俺は環の真剣な顔を見つめ、それから自分の手元を見た。
「え? 捌くのは、俺もできんよ」
「…………は!? 嘘やろ!」
環が、今日一番の大きな声を上げた。
「俺、いつも父親に捌いてもらっとるけん。自分でやったことないんよ」
「崎本、それはないわ……。入学式以来の失態やないか?」
確かに……。俺は釣るまでのシミュレーションは完璧だった。けれど、釣った後のことまでは全く頭になかった。俺の魚はクーラーボックスに入れて帰れば父が喜んで捌くだろうが、環の魚はどうする? 俺の家まで、バスを乗り継いで片道一時間超。まさか俺の家まで来させるわけにもいかないし、ましてや捌けない彼にそのまま渡しても宝の持ち腐れだ。
「さすがに、ごめん。謝るわ」
「……これ、動画で見よう見まねでやってみるしかないのか」
「スマホが鱗だらけになりそうじゃな」
俺たちがうんうんと頭を突き合わせ、途方に暮れていた、そのときだった。
「ボスズら、困っちょるみたいじゃね」
不意に、背後から、鷹揚な声が降ってきた。振り返ると、さっきまで少し離れた場所で釣っていた二人組のオジサンたちが立っている。
話しかけてきたのは、エビス様が日焼けをしたかのような風体の、人の良さそうなオジサンだ。そして、そのすぐ後ろで、さっきから俺のことをチラチラ見ていたもう一人のシルバーヘアの強面の男性が、腕を組んでむすっとした表情で立っている。背が高いので、若干の威圧感もある。
「俺たち、釣ったのはいいんですけど、うまく捌く方法が分からなくて……」
俺は正直に経緯を説明することにした。
父と釣りに行ったときには、同じ場所で釣りをしている仲間から話しかけられた経験もあり、この二人が特別怪しいとは思わなかった。釣り場では、もう帰るから使わない餌や仕掛けを他人に譲ったり、仕掛けが岩に引っかったから外してもらったり、持ちつ持たれつ……のようなことが度々ある。
「俺の方は家に帰れば父が捌いてくれるんですが、こっちの友達の方は一人暮らしで……」
俺の説明が終わったら、エビスのオジサンは、「はっはっは」と豪快に笑った。
「そのままにしとったら、もったいないもんな。――なあ、オモちゃん。ちょっとこの二人に捌き方教えちゃれよ」
「オモちゃん」と呼ばれた男性は、「なんで俺が」と言いたげに眉を顰めた。――俺も正直そう思う。釣り場では持ちつ持たれつはあるけれど、さすがに捌き方を見ず知らずの高校生二人に、教えるのは難しいんじゃないか。
「オモちゃんの家、喫茶店やっとるんよ。本通りにある『紗羅』って店なんじゃけど……オモちゃん、ちょっとくらい親切にしてもええじゃろう。俺らもこのぐらいの歳のときに、ここで親切にされたことがあったじゃろう? それにさっきまでこの子らのことチラチラ気にしとったし。これも何かの縁じゃろう」
「な……! 変なこと言うな。チラチラなんて見とらんわ!」
オモちゃんと呼ばれた男性は、明らかに動揺して声を荒らげた。けれど、俺たちの困り顔と、エビスのオジサンの期待に満ちた視線に挟まれた末にだろうか、観念したように息を吐いた。
「……まあ、少しぐらいなら別に構わんが」
「よし決まりだ! 捌いて、ついでに美味い食い方も教えてやれ。ちょうど喉も乾いとる頃だろ」
エビスのオジサン――末永誠さんは、実に行動力のある人だった。オモちゃんこと重川直樹さんは、半ば強制的に俺たちを引き受けることになったのだ。
「店、行っていいんですか?」
「ああ。……と言っても、今はもう、俺の店じゃない。娘に譲る店だがな」
重川さんがそう言えば、今度は末永さんがため息をついた。……今のため息はどういうことだろう。
俺は黙ったままの環に目を向けた。「どうしたい?」と視線で訴えると、彼は少しだけ背筋を伸ばし、
「お願いします。ありがとうございます。お世話になります」
と、丁寧にお辞儀を繰り出した。




