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――本当に、それだけ?
今の三島先生の一連の話を聞いて、俺にはそうは思えなかった。
三島先生が、加藤先輩のルール違反の可能性を、昨日の時点で蒲原先輩と井上先輩に言わなかったのは、加藤先輩への思いやりから来ているのではないだろうか。
「あの三人の関係を壊したくなかった……とか?」
三島先生は目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
「……崎本は、なかなか人の気持ちを想像するのがうまいな。あいつら三人は、お前らから見ても仲が良いだろう? 『見せるな』と言えば、十中八九、理由を聞かれる。そのときに加藤本人がいないのに、仲間の前であいつのルール違反の可能性を指摘するのは俺としても気が引けてな。ルール違反をした加藤を、あの二人がどんなふうに思うのか分からなかった。それに、加藤がルールを守っていた場合――俺が加藤を疑ったという点だけが残るだろう。生徒のことを信じない教師を信用できるか?」
――三島先生は、この場所と、三人の関係を壊したくなかったのだ。加藤先輩にとっての居場所を。
三島先生は、標本箱をそっと撫でた。
「こっそり加藤本人に注意して、反省させればそれで済むと思ったんだ。俺は、加藤がこの一回で反省してくれれば、これ以上追求しないつもりだ。加藤の性格からして、俺が言えば反省してくれると思っているんだが……犬星、崎本、今回のこと見逃してもらえるか?」
三島先生はそう言うと、観念したように両手を上げたポーズを取る。それから、俺と環が顔を見合わせている間に、がちゃがちゃと音を立てて机の引き出しを漁り始めた。
「これでも食うか? 口止め料だ」
先生が机に置いたのは、パイナップルが描かれたトロピカルな包装のお菓子だった。
「パイナップルのお菓子? 沖縄の、ですよね」
俺が尋ねると、先生は鼻を鳴らした。
「ああ。加藤が持ってきたパイナップルケーキだ。食べるタイミングがなくてな。賞味期限は……まぁ三日ほど切れているが本場のやつだからな、食え」
先生は自身で一つ、乱暴に袋を破って口に放り込んだ。
お菓子は食べたいけど。
俺と環は、突然出てきたパイナップルケーキには手をつけず、再度互いの顔を見合わせた。
環が先に口を開く。
「見逃すも何も、俺たちは警察じゃないですし。加藤先輩も本当にルール違反をしたのかも分からないですし。グレーな行為だとしても、そこは別に何も思わないです」
「じゃあ、何で今日は謎解きをしに来たんだ? 俺のことか、生物部のことか、何かを正すためか糾弾するために来たんじゃないのか?」
三島先生は、力なく笑った。
「いえ。俺、決めたかったんです」
環が、ブレザーのポケットから一枚の紙を取り出し、三島先生のぐちゃぐちゃのデスクにそっと置いた。
「俺、生物部に入部します」
環の唐突な宣言が、準備室に響いた。
「えっ!?」
三島先生と俺の声が、見事に重なり、三島先生がバツの悪そうな顔で俺を見つめた。当の環は、デスクに置かれた書類たちをじっと見つめたまま、言葉を続ける。
「昨日体験して、先輩二人もええ感じだったし、入部したいと思いました。でも、この件が訳分からんまま入部するのは……ちょっとなと思って。全部知った上で入部したくて」
環は少し照れくさそうに視線を泳がせ、ブレザーの裾を指先でいじった。
「でも、もう大体分かったので、入部します。三島先生が意外と生徒のこと考えとるの分かったし。俺、高校からここに越して来て、まだ関西弁でまともに喋れる場所、少ないんですよ。三島先生、京大出身なんですよね。関西弁なんて慣れっこですよね」
なるほど、という顔で三島先生が深く頷いた。丸眼鏡の奥の目が、少しだけ柔らかく細められる。
「お前のその不自然な敬語、気になっとったんだ。生物部におる間くらいは、素で喋れ。多分、ここにはお前の言葉を気にするような奴はおらんしな。実際、俺も広島弁と関西弁がぐちゃぐちゃに混じっとるし、生物部のやつらは関西弁も慣れっこよ」
環と三島先生は、互いを見つめて、微かに笑った。謎が解けた今、環は三島先生のことを信頼すると決めたようだ。
「俺も、京都大学を目指してるんですわ」
環が、今度はおかしな語尾を付けずに、少しだけ誇らしげに言った。
「三島先生の京都におった頃の話も聞いときたいし」
「おう。あそこの学生生活がどれだけ浮世離れしとるか、いつでも聞かせちゃるわ」
三島先生は、ガタガタと音を立てて椅子を回し、再びパソコンの画面に向き直った。
「ただし、入るなら覚悟しとけよ。加藤もマニアックやけど……。井上の生物の趣味も知っとるか?」
そう言えば、昨日は井上先輩の話はあまりしなかったな。
「井上も、なかなかマニアックなものを研究しとるよ。足が八本の……入部したらおいおい聞いてみたらいいさ。ここには、変わったやつばっかりだ。ここに限らず、世の中変わったやつらばっかりなんかもしれんがな」
「望むところです」
静かに、力強く、環は答えた。それから、おまけみたいに付け足した。
「昨日、もしもあの箱を見せられたら、俺は多分先輩たちの関係性なんて何も考えず『これって本当に採ってもいいんでしたっけ?』ぐらいは指摘してたと思います。なので、三島先生が箱を隠したのは、間違ってないですね」
環は微かに微笑んだ。
最後の言葉は、環の優しさそのものだった。この騒動を招いた三島先生のことを、肯定したのだから。
明日になれば、三島先生は蒲原先輩と井上先輩に、箱は見つかったと言うはずだ。それから、加藤先輩には先生から箱が返され、そのときにきちんと話をするのだろう。
俺と環は、オレンジ色から深い群青色へと変わり始めた生物室を後にする。背後では、三島先生が叩くキーボードの規則正しい音が、リズムを刻むように続いていた。
完全に夜が訪れた呉の街を、俺たちは並んで歩いている。
街灯に照らされたアスファルトの上で、二つの影が長く伸びている。人が少なくなる時間ほど、潮の香りが一段と強くなると思うのは、気のせいだろうか。
もうすぐ環と別れる道の手前で、俺はとんでもないことに気がついた。
「あ! 三島先生が出してくれたパイナップルケーキ、もらい忘れた!」
叫ぶ俺の横で、環が呆れたように肩をすくめる。
「いいやろ、そんなの。賞味期限切れとるゆうてたやん。俺はもらうつもりなかったけど」
「よくない! 切れたのは『賞味期限』じゃろ? 『賞味』ならちょっと味が落ちるだけじゃん。俺、最後にもらおうって決めとったのに、話に夢中で完全に忘れとった! 環が急に入部するとか言い出すけん」
「俺のせいやないやろ」
環の抗議をよそに、俺はがっくりと項垂れた。
一度思い出すと、頭の中がパイナップルケーキの甘い想像でいっぱいになる。悔しい。このまま帰るなんて、俺の口と胃袋が許さない。
俺は何かないかと思考を巡らせ、呉が誇る最強の代打を思い出した。パイナップルケーキから連想した代打ではあるが、ホームラン級の代打だ。
「環、これ知っとる?」
俺はスマホを取り出し、検索画面を見せた。「鳳梨萬頭」と、その写真を。
「全く知らんけど。そもそも、何て読むんや」
「『おんらいまんとう』よ! これ、呉駅のフレスタに売っとるけん、バスに乗る前に買うわ! 中にパイナップルのジャムが入っとるお饅頭。あー、もう俺の口は完全に『おんらいまんとう』になった。環の分も買うけん、明日あげるわ」
「何でそうなるんや。いらんし! しかも、明日って」
環が戸惑ったように眉を寄せる。
「遠慮するなよ。一個百円ちょっとで買えるけん。環の生物部入部決定祝いに俺が買っちゃる」
はぁー、と環が長いため息をついた。
「俺がいらん言うても、崎本、本気で買ってくるやん」
「買うけど?」
環は足を止め、自身が帰る道ではなく、呉駅へと続く道を見つめた。
「……友達に借りを作りたくないけん、俺も一緒に行って自分で買うわ。その、鳳梨なんとかいうやつ。うまいんやろ?」
俺は、思わず環の顔を二度見した。
今、なんて言った? 友達?
昨日まで、「友達って誰が?」と言わんばかりに首を傾げていた環の口から、そのキーワードが自然に溢れていた。
「……何ニヤニヤしとん」
環も自分の言葉に気がついたのだろう。耳まで赤くして、顔を背ける。
ここで俺が指摘すれば、「聞き間違いや」と誤魔化されるに違いない。
「秘密。ほら、早く行こ! 売り切れたら困るけんね」
俺はわざと明るい声を出し、少しだけ足早に歩き出した。
「待てや、崎本。そんな急がんでも、なんとかまんとうは逃げへんって!」
振り向かなくても、環の足音が軽やかに、俺に近づいていることが分かった。




