2-6
四月の夕暮れの空は、うっすらと穏やかなオレンジ色に染まり始めている。
校舎から見える呉の海では、昼間と夜の境界が生まれていて、造船所のクレーンのシルエットが静かに浮かび上がっていた。
「行こうか」
俺は、手元の本から目を離さない環に声をかけた。
「もうそんな時間か。蒲原先輩はもう帰ったんやろか?」
「分からんけど、下校放送も鳴ったし。もうおらんじゃろうね。さっき、生物室の電気が消えたわ」
俺たちは、静まり返った生物室の隣――まだ扉の隙間から細い光が漏れている、生物準備室へと向かった。
立て付けの悪い扉を押し開けると、昨日と同じ、埃っぽい匂いが充満していた。乱雑に積み上げられた書類の山の向こうに、パソコンの画面に照らされた三島先生の丸眼鏡が、ぼんやりと光っているのが見えた。
「三島先生」
先頭に立って、俺が声をかける。
「お前ら、昨日来た一年生か。どうした、こんな時間に。下校時刻はとっくに過ぎたぞ」
三島先生はキーボードを叩く手を止めず、怪訝そうな顔を一瞬だけこちらに向け、またパソコンに向かい合った。
環は、三島先生の逃げ場を塞ぐかのように、俺の隣に立ち、狭い通路を塞いだ。
「昨日の件で、ちょっと」
「生物部への入部か?」
「いえ……加藤先輩の標本のことで……加藤先輩のコレクションの一つを隠したのは、三島先生とちゃいます?」
環は、確信を持っているのか、昨日よりも大胆に三島先生へ話しかけた。
沈黙が続き、パソコンのファンの音だけが響く。
ふう、と深い溜息が聞こえ、がたりと椅子を引く音が鳴った。ようやく三島先生が、完全にこちらを向いた。
「おいおい、何を言い出すんだ」
先生は、書類が散乱した机の上に無理やり肘を置き、頬杖をつきながらニヤリと笑った。
「なんで俺だと思ったんだ? 標本なんて、ただ単にこの部屋のどこかに紛れているだけだと思うが……。百歩譲って、誰かが隠したとして……俺以外の誰かという可能性も十分にあるだろう」
「昨日の昼休み、加藤先輩のコレクションが全て揃っているのを見たのは、蒲原先輩でしたよね」
環が淡々と、けれど確信を持って告げる。
「ああ、蒲原の言葉を信じるならな」
「あれは真実だと思います。もし蒲原先輩が隠したなら、わざわざ俺たちにコレクションを見せようとするでしょうか? 自分で箱を出しておいて、一箱なくなっているなんて騒ぎ出すのは、自分を疑ってくださいと言っているようなものです。しかも、自分で隠しておいて、『昼まであった』と断言するのはおかしい。『いつまであったか分からない』と言う方が自然ですよね」
「それに、蒲原先輩は先生を尊敬しとるみたいじゃし……」
俺も言葉を添える。
「万が一、部内で盗難や紛失が起こった場合、顧問である先生が責任を問われる可能性もありますよね。蒲原先輩が先生の信頼を失墜させようと企んでいるなら、逆にもっと大騒ぎにしているはずですよ。……だから、蒲原先輩は除外しました」
三島先生は、「ほう」と一つ感心したように眼鏡を指で押し上げた。
「……なら、井上の方はどうだ?」
「はい、そこです。井上先輩を除外する前に、三島先生だと確信した理由があります」
環が一段と声を強めた。
「箱のナンバーですよ。先生、昨日の帰り際、『三つ目の箱を探しておく』とおっしゃいましたよね。どうしてなくなったのが『三つ目』だと分かったんですか?」
「…………」
「ナンバーは箱の裏に書いてあるんです。箱を手に取って、ひっくり返して観察した人にしか、欠けている番号は分かりません。先生は、加藤先輩のコレクションには触っていないはずなのに、どうしてピンポイントで番号を当てられたんですか?」
三島先生の顔から笑みが消え、重苦しい沈黙が降りた。
「沈黙は、肯定と受け取ります。それで、昼休みに井上先輩のところにも行ってきたんですよ。そこで井上先輩は何て言ったと思います?」
昼休みに会いに行った井上先輩は、不思議そうに首を傾げていた。
『え? どの箱がなくなったかって? それ何かのクイズ? うーん……蒲原くんが言うには、加藤くん、四つ持ってきたって言っとったよね。四番目?』
「そう。事情を知らない人は、四箱のうち一箱がなくなれば、一番端の箱か、単に一箱がなくなったとしか思わないんです。俺も、昨日箱の底を見ていなければ、三つ目が抜けているなんて気づきませんでしたよ」
環が言った言葉に、俺も補足する。
「井上先輩が、もしも加藤先輩に何らかのいたずらや冗談を仕掛けて隠したとしたら、昨日隠す意味が分かりません。加藤先輩はお休みだったのに。いたずらをするなら、加藤先輩が学校に来てからだと思うんですよね。しかも蒲原先輩が本気で困っているのに、放置して帰るメリットが分かりません」
三島先生は、再び大きな溜息をついた。
「はぁ。それなら俺だと仮定しよう。だが、加藤のコレクションを俺が隠して、それこそ何のメリットがある? 沖縄の蝶なら、昔俺も散々集めたんだ。俺も同じものを持ってるんだ。なんなら、今よりルールが緩かったから、今は捕まえられない蝶だっているぞ。今さら生徒の標本を盗む意味がないだろう」
環が、一瞬だけ口をつぐんだ。
動機。ここだけは、環には見えていなかった。
俺は、環の肩を軽く叩いて前に出た。
「三島先生がコレクションを隠したのは、環のせいですよね」
環が俺の隣で「えっ」と驚く。
「昆虫に詳しすぎる環に、あのコレクションを見られたくなかった。違いますか? 四つ目の箱は見せても問題ないけれど、三つ目の箱だけは、環に見られて、万が一にもこの生物部を咎められたり、否定されたり、騒ぎにするわけにはいかなかった」
――沈黙がしばらく続いた後、三島先生は苦々しげに口を開いた。
「俺が何でお前たち――特に犬星に三つ目を見せたくなかったか。そこまで分かるか?」
先生の問いに、俺は頷く。
俺は、三島先生が「ルール違反をするのは感心しない」と言ったことを思い出していた。
「どっちかだと思っています――捕まえてはいけない絶滅危惧種か、あるいは、立ち入り禁止地区などで捕まえられたものか。残されていた四つ目の箱に入った蝶の方が珍しかったのなら、採取してはいけない場所だったという方がしっくりきますけど。……とにかく、その箱には加藤先輩のルール違反の証拠が詰まっていたんじゃないですか?」
三島先生は、観念したように短く笑った。
「……すごいな……ほとんどその通りだ。崎本は虫に詳しくないんだろう?」
「詳しくないですけど、推測です。そもそも、俺みたいな昆虫に詳しくない人間なら、見ても問題なかったんですよね。犬星みたいに詳しいやつが、もしも加藤先輩のルール違反にその場で気づいて、万が一加藤先輩や三島先生を糾弾し始めたら、生物部も三島先生も大目玉……みたいなこともあり得ますよね」
先生は足元の乱雑な荷物の中から、大きな段ボール箱を手に取り、その中から木枠の標本箱を取り出した。紛れもない、加藤先輩の三箱目のコレクションだ。
三島先生は、俺たちに箱を見せてくれる。
環が身を乗り出して覗き込み、息をのんだ。
「これ……」
「犬星には分かるか。蝶自体は沖縄によくいる種だろう?」
箱の中には、大きな蝶が入っていた。白に黒い斑ら模様の入ったきれいな蝶だ。
「ええ。これって、オオゴマダラで合ってますか?」
「そうだ」
「でも、オオゴマダラって、ヤマトタマムシと同じで、沖縄でも保全対象の種ではないですよね。採取してもいいはずでは? あ、でも……採取地が『西表石垣国立公園』になってるやん」
「……犬星は、やっぱりこのラベルが気になったか。そりゃ、詳しいやつが見たらそういう反応になるよな」
環が見つめているラベルには、沖縄県石垣市の地名が記されていた。
「確か、一部が特別保護地域になってたような」
「そう。オオゴマダラ自体は、採取しても構わない。だが、西表石垣国立公園となると、要警戒だ」
「そこで採取しちゃダメってことですか?」
俺がたずねると、三島先生が丁寧に教えてくれる。
「西表石垣国立公園内でも、全面禁止なわけではない。採取して良い場所もあるんだが……『特別保護地域』に指定されているところでは、どんな動植物も取ってはいけないんだ。どんなにありふれた動植物でも、な。その特別地区の境界を、初めて石垣島に行った一個人が判断できるのか……俺は疑問だ」
ふぅ、と三島先生はため息をついた。
「そもそも、石垣市はたとえ許可された場所であっても『動植物のむやみな採取は控えてほしい』とホームページで言っとるんだ。加藤は本当に採取していい場所で採ったのか、その行為が『むやみ』に該当しないのか……俺はそれを確かめないといけない」
三島先生は、かつて自分が沖縄で採取したときの経験を加藤先輩に語り、加藤先輩はそれに刺激を受けて春休みに沖縄へ飛んだ。絶滅危惧種は採取してはならないというルールは知っていただろうが……加藤先輩は、採取場所というルールをどのぐらい正確に把握していたのだろうか。
「先週の金曜日に俺がこれに気づいて、そのときに加藤とちゃんと話をしていればこんなことにはならなかったんだが。金曜日も今日も授業が詰まっていてな。準備室でゆっくりする時間がなかったんだ。俺は、お前らがヤマトタマムシをいじっている最中に、これを見つけてだな……マズイと思ったんだよ」
あの一瞬で、この箱の情報と、昨日来ていた環のこと、それから蒲原先輩がこの箱を俺たちに見せようとすると見抜いた三島先生もすごい。
「でも、蒲原先輩が加藤先輩のコレクションを取りにいったときに一言、『このコレクションは新入生には見せるな』と言ってやめさせればよかったじゃないですか」
環の率直な言葉に、三島先生は困ったように眉を下げた。
「あのときは、すでに隠しておいた後だったからなぁ。『知らん』と言うしかなくて、引き返せなかったのもあるさ」




