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「あの……俺たちも入っていいですか?」
環が、標本を完成させたタイミングで尋ねた。先輩たちは顔を見合わせ、苦笑いした。
「いいけど、相当汚いよ。この高校の準備室で最凶に汚いと噂じゃけんね……」
不名誉すぎる噂に同情しながら足を踏み入れると、そこは想像を絶する惨状だった。――その噂は、不名誉な噂なんかじゃなく、事実と言わざるを得ない。
細長い部屋の中央には、理科室と同じ黒い実験机が二つ。その左右を、天井まで届きそうな棚が埋め尽くしている。
目の前の机の上には、正体不明の箱が山積みになっていた。さっき大量のタマムシが出てきたことを思えば――この箱のどれかから、また大量の「何か」が出てくるのかと思うと、迂闊に触るのが怖い。
「この準備室、すごいな……」
環に向かって小声で囁いたつもりが、奥から鋭い声が飛んできた。
「おい、それはどういう意味だ」
三島先生が、奥のデスクでパソコンを睨んでいた。
先生の座る机の周りには、地層のような書類の山と、百科事典並みに厚い専門書が乱雑に積み重なっている。ほかにも、何の書類か判別不能な紙束が足元に散乱している。
「揃いも揃ってどうした。入部届ならそこの山に突っ込んどけ」
いや、絶対にここに置いたらなくなる。
「三島先生、加藤のコレクション知りません? この部屋に置いてあったはずなんですけど」
蒲原先輩が尋ねた。
「加藤のコレクション? 知らん。つーか、俺に黙って変なもんを持ち込むな。持ってくるなら、真っ先に俺に検品させろと言っとるだろうが」
「いやー、金曜日に来たとき先生は席離れとったし、後で言えばええかって……。あいつも今日休みだし、困りましたね」
「どこに置いとったん?」
井上先輩に促されて、蒲原先輩が棚の一角を指差す。その横には、家庭用より一回り大きい横長の冷凍庫が鎮座していた。
「先生、色んな遺体を拾ってくるけぇね。崎本くん、先生の噂知っとる?」
井上先輩が、声を潜めて聞いてくる。
「……カラスの話なら、少しだけ」
「あ、それ有名よね。呉駅まで歩いとる途中にカラスの遺体を見つけて、カバンからおもむろにでっかいビニール袋を取り出して、そのまま学校に引き返したってやつ」
「そりゃあ、カラスの遺体を自宅に持ち帰るわけにはいかんだろうが。衛生上の問題だ」
パソコンを叩きながら三島先生が吐き捨てる。学校ならいいのか、というツッコミは全員が飲み込んだ。
「その先生の遺体コレクションが、これ」
井上先輩が、コツコツと冷凍庫の蓋をノックした。
「この中にはね、カラスにタヌキに、猫ちゃんまで……。先生の色んな獲物が詰まっとるんよ。見る?」
「……遠慮しときます」
俺は激しく首を振った。環も、流石に引き攣った顔をしている。
「あー、やっぱり、ないわ。ここに四つ積み重ねて置いとったんよ。……一箱だけ、綺麗になくなっとる」
蒲原先輩の声が、少しだけ強張った。
「加藤先輩のコレクション、この部屋で最後に見たのは蒲原先輩ですか?」
俺の問いに、蒲原先輩は前髪をくしゃりと掻いた。
「多分……俺じゃね。今日の昼休みにここに来たときは、間違いなく四つあるのを確認した……はずなんじゃけど」
「井上先輩は?」
「私は、そもそも加藤くんが標本をここに置いとること自体知らんかったんよ。犬星くんと崎本くんが来る前に準備室に入ったときも、タマムシの箱しか探しとらんかったし……」
井上先輩が申し訳なさそうに眉を下げる。
俺が「三島先生」と言おうと息を吸った瞬間、奥でパソコンを叩いていた三島先生が、顔を上げずに口を挟んだ。
「俺に聞いても無駄だぞ。さっきも言ったが、俺はここにある私物に興味はない。生徒に言われてない限り確認せんからな。どうせ、この中のどこかに紛れとるよ」
「これ、やばいですよ。あいつが学校来たら、絶対ぶち切れる……! それか、泣く……!」
蒲原先輩は本気で頭を抱えた。
「ちなみに、そのコレクションって、どういうものなんですか?」
俺が尋ねると、蒲原先輩は「残った三箱だけでも見てみるか」と、重い足取りで準備室から三つの木箱を運び出す。三島先生も、仕方なしに、重そうな腰をあげて俺たちについてきた。
生物室の実験台に並べられたのは――A3用紙ぐらいのサイズの標本箱だ。そこには生きたまま時間が止まったかのような、鮮やかな世界が広がっていた。
一箱目は、モンシロチョウやアゲハチョウなど、俺でも名前の分かる馴染み深い蝶たちが収納されていた。
二箱目は、小ぶりだが翅の裏側に複雑な模様を持つ、宝石のようなシジミチョウの仲間、らしい。これは環が教えてくれた。
そして最後の一箱を覗き込んだとき、隣にいた環が、今日一番の驚きを含んだ声を上げた。
「これ、沖縄の……?」
箱の中に並んでいたのは、一見すると茶色っぽくて地味な蝶もいれば、美しい瑠璃色の翅をもった蝶もいた。どれも俺が見たことはないような蝶で、翅の端が複雑に欠けていたり、裏側に目玉のような模様があったりする。
ラベルには『沖縄市◯×公園 3月×日 加藤海里』などの見慣れない地名が並んでいた。
「加藤、春休みに沖縄に行ったんよ。確か、三島先生の話を聞いて触発されたか何かで……ねぇ、先生?」
三島先生は気だるそうに鼻を鳴らす。
「別に俺が勧めたわけじゃない。俺が昔、沖縄や台湾で蝶を取ったときの話を、あいつにしただけだ」
「……なくなった一箱には、どんな蝶が入っていたんですか?」
環の質問に、蒲原先輩はうーんと唸った。
「何じゃったかな……。黒と白の……大きい蝶だったけどな。蝶のために旅行するとか、加藤はほんまに虫が好きなんじゃ、って話で盛り上がったんは覚えとるんじゃけど……種類までは……」
「貴重なものなら、盗まれた可能性はございませんか?」
環が単刀直入に切り込んだ。その場に気まずい沈黙が流れる。
「ちょ、環! 盗まれたとか、そんな……」
いくら何でも直球すぎるし、失礼だろ!
環は真剣な目で三島先生を見つめたままだ。
「盗むというか……何かの間違いで、ちょっと借りていった人がおるとか! そういうのはどうですか?」
俺は慌ててフォローを入れた。
「この準備室は平日なら鍵もかかっとらんし、誰でも入れるけど……わざわざ加藤くんの私物を持ち出す奴がおるとは思えないけどねぇ……。しかも一箱だけ。もし沖縄の蝶がほしいなら、二箱持っていくような気がするけど」
井上先輩の言葉を受け、蒲原先輩も頷く。
「貴重さで言ったら、その残っとる方の箱に入った蝶の方が珍しい言っとったと思うよ」
俺も含め、みなが黙り込んだ。
沈黙を破るように、蒲原先輩が言う。
「とりあえず、もう一回準備室を探してみるわ。もしかしたら、三島先生の言うように書類の山に潜り込んどるかもしれんし」
さすがに新入生の俺たちが、先生の私物や書類が詰まった準備室を漁るわけにもいかない。二年生から「今日はもう帰ってええよ」と言われたが、どうしても箱の行方が気になると環が言うから、俺たちは生物室に残ることにした。
俺と環は、再び加藤先輩の標本をじっくりと眺める。
一つ一つの個体が、きっちりと、箱の中でパズルみたいに配置されている。触角の曲線まで左右対称で、会ったことなんてないのに、加藤先輩の蝶に対する愛が伝わってくるようだった。
「標本箱って、こういう作りになっとるんじゃね」
俺は、蝶がひっくり返らないよう箱を水平に保ったまま、裏側を確認した。木枠がピタリと噛み合う精巧な作りで、簡単には湿気を通さないようになっているらしい。箱の裏側には、細いマジックでナンバリングがされていた。今ここにある箱は「No.1」「No.2」「No.4」があるから、どうやらなくなったのはNo.3の箱らしい。
「環、どう思う?」
「……まだ、分からん。でも、こんな綺麗な標本を、適当にどっかへやるなんて、信じられへんわ」
「俺もそう思う。なくそう思ってなくせるサイズじゃないよな」
標本箱は、それなりに大きい。
――誰かが箱を隠した可能性が高い。しかも一箱だけ。どうして?
俺たちはそれきり沈黙して、先輩たちが戻ってくるのを待った。準備室からは、がさごそと探索の音が聞こえてくる。俺は、自分がさっき作ったガタガタのヤマトタマムシの標本をそっと手元に寄せた。
結局、二年生二人と三島先生が総出で探しても、加藤先輩の標本は見つからなかった。
「もー、三島先生があんなに準備室を汚くしとるけん、見つからんのですよ! 綺麗に片付けたら、案外すんなり出てきますって……。じゃあ、私、塾の時間なんでお先に帰りますねー。崎本くんと犬星くんも、帰ってええんよ?」
井上先輩がぶーぶーと文句を垂れながら、教室を後にした。彼女は蒲原先輩ほど紛失を深刻に捉えていないようだ。
蒲原先輩の方は「あいつ、絶対泣く……」と、いまだに青い顔をしている。最後に見たという責任も感じているのかもしれない。
「分かった、分かった。綺麗にするから。三つ目の箱は俺が責任を持って探しといてやる」
面倒臭さが半分、自分の管理責任が半分、といった様子で三島先生が蒲原先輩を宥めた。
「……今日はごめんな。せっかく来てくれたのに」
帰り際、蒲原先輩が申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ! 俺、初めて標本作って、めちゃくちゃ楽しかったです」
俺はできるだけ元気に答えた。これはお世辞じゃない。あのキラキラした羽に触れ、一瞬だけど集中した時間は、想像以上に面白かった。結果は、俺に才能がないことが分かっただけだけど。それでも、初めての体験というのは良いものだ。
「……俺も。こんなに、一つのことに集中して取り組んだのは……中学以来です。楽しかったです」
環が、今日一番深く頭を下げた。
大阪での中学時代、両親の離婚騒動で家の中が落ち着けないと言っていた彼の言葉を思えば、この集中がどれほど貴重なものだったのか、俺には分かる気がした。
「そう言ってもらえると救われるわ。よかったら、入部検討してね。今度は、ちゃんと揃ったコレクションを見せるけん!」
蒲原先輩が明るく手を振り、俺たちは夕暮れが迫る旧校舎を後にした。




