温かくて幸せな魔法の言葉
お祖母様から事実を教えて頂いてから、毎日考える。
お母様はこの事実を知ってから、どんな気持ちであの人――父の側にいたのだろうか。どんな思いで、あの人と共に生きていたのだろうか。――6年近くも。
私には分からない。私なら側になんていられない。一緒に生きていくなんて無理。
――でも。お母様はあの人といて、幸せそうに笑ったりしていた。恋する乙女のような表情であの人と踊っていた姿を、今でもはっきりと思い出せる。
きっと、愛していたのだろう。多分、信じていたのだろう。いつか私に対する態度も気持ちも考えも変わってくれる、と。もしかしたら同じくらい、願っていたのかもしれない。変わって欲しい、と。信じ愛したものが、実はとんでもない代物だっただなんて、それはとても受け入れ難いことだ、おそらく。
頭では、そう考えられる。けれども気持ちが、心が追いつかない。
疑いたくなんてないのに、微塵だって疑いたくないのに、それでも疑問が、不信が湧いてくる。
――お母様も、あの人と同じように思っていたら?
それはない。絶対ない。そうでなければ私をあんなに守ってくれたりしなかった。
そう、思うのに。
気が緩めば、じわり、と心の奥底の深淵から暗いものが滲み出るように湧き出してくる。じわりじわりと。
閉じてしまえば楽なのだ。心に蓋をしてしまえば。けれど簡単にはできないほど、お母様は私にとって家族で。大切な、たった1人のお母様で。心の中に大きく喰い込んでいて。
心がぎしぎしと軋み悲鳴を上げる。まるで前世の再現だ。前世、家族と勝手に自分の中で決別する直前の。あの時も、結局父に問い質せないまま死なれた。残された母は酷く嘆いて痩せ細り、問い質したくても問えない状態になったしまった。妹は端から無駄だった。父のことも母のことも私に丸投げだったし。だから諦めて、1人で答えを決めて全て、とは言わないけれど、あの家族と決別した。精神的に、だけではなく、物理的にも。我ながら酷いとは思うけれども――実はあんまり酷いとは思っていないけれども――そうしなければ私が壊れていた、きっと。
そして今、何の因果か似たような状況だ。
弱り切った母を放り出したが故か。丸投げし返したが故の、それら全てが故の因果応報か。
――『あの子は――ミナは、自分がそう遠くない未来に貴女を独りにしてしまうと分かっていたの。そうなったしまった時、貴女が大変な目に遭うだろうと分かっていたのよ、シア。だから、考えつく限りの手を打とうとしていたの。勿論、少しでも長く一緒にいようと努力していたわ。でき得るなら、自分の代わりに貴女を守ってくれる人が現れるまでは生きていたいと、そう言っていたのよ』――。
お祖母様が語った、お母様の言葉が甦る。
領地は、その1つだった。万が一、私があの家から放り出されたり、飛び出さなければならない事態になったりした時に、生きていけるように。半恒久的な収入源を遺してくれたのだ。
それが分かるのに、暗いものが晴れない。鬱々と私を蝕む。
お母様はあの人を、あんな人でなしを、そうと分かっていて、それでも愛していたの? それとも愛している振りをしていたの? 領地を遺すくらいならなぜ、あの人と離れてくれなかったの?
分かっている。それでも愛していたのだ。振りではなく、心から愛していたのだ。だから離れなかった。
けれどそれが私を愛していなかったことにはならないのだ。お母様はいつだって私を守ってくれたし、守ろうとしてくれた。私はそれを知っている。
そう分かっているのに、どうしても暗いものが消えてくれない。
「――……」
ああ、幸せが逃げるというのに、溜息が止められない。
空を振り仰げば、今日も良い天気だ。陽射しが明るく燦々と降り注ぎ、日向は仄かに暖かい。反比例するように私の中はどんよりと暗くて薄ら寒い。
こんな、考えても仕方のないことを、どうしたってもう答えを得ることのできないことを、いつまでも堂々巡りに考えている暇なんてないのに。
これからどうしなければいけないのか考えなければならないし、調べなければならないことも、覚えなければならないことも、多分きっと沢山あるのに。
何も考えられない。何もする気になれない。
だから生まれ変わるなんて嫌だったのに。信じなかったのに。いるかどうか分からない神とやらに八つ当たりしたい。何の嫌がらせだ。私が何をしたって言うんだ。――何か、したのだろうか。したのかもしれない……したんだろうなあ……。
「お嬢様、お茶になさいませんか」
別に何を考えたわけでもない。反射的に、機械的に、声のしたほうに振り返る。
ターラの笑顔が見えた。
「……ええ、そうですわね……」
機械的に答えて、窓から離れ、ソファに座る。ターラがポットから紅茶を注ぐ。カップから湯気が上がる。仄かに芳ばしい香りがする。
ターラの手が慣れた手つきでローテーブルにカップとソーサーを置く。
「……有り難う……良い香りね……美味しそうですわ……」
「有難う御座います」
酷く緩慢に感じる動きで紅茶を一口口に含む。ほんのり甘くて、でも後味がさっぱりしていて美味しい。ほう、と息が漏れる。まるでそれまで息ができていなかったみたいだ。
「……美味しいですわ……」
ああ、ターラの屈託のない笑顔が見える。
ターラ。
子供の頃からずっと一緒にいたくれたターラ。いつだって側にいて、助けてくれた。兄や妹や、多分あの父からも。やんちゃも一緒にしてくれた。いつも一緒だった。前世の私なら考えられないくらい、ずっと一緒にいた。それでも居心地が悪いとか、この子から離れたいとか、そんなこと考えもしなかった。前世の私なら考えられないことだ。誰かと、それが例え家族だろうとも長時間同じ空間にいることが苦痛だった私なら、有り得ないことだ。でも、ターラは一緒にいても平気だ。むしろ楽しい。
大切な、大切なターラ。
――ああ、そうだ。でもこの子は家族のところへ返してあげないと。そう、やらなければいけないことが沢山あるんだよ。呆けている場合じゃないんだよ。
「……ターラ」
「はい、お嬢様」
ターラが穏やかな笑みを浮かべている。この子の周りの空気はいつだって温かくて柔らかくて優しい。
「……貴女のご家族はどうしていますの?」
私の唐突な質問に、ターラは少し首を捻った。
「多分、元気にやっていますよ」
「……そう……。……貴女が此処にいることはご存知ですの……?」
「はい。ジェフリック様が家族に手紙を届けてくださると仰ってくださったので、お願いしました」
「……ジェフ伯父様が……?」
「はい。此方に来る前に」
「……そう……」
凄いなあ、伯父様は。流石だなあ。私なんか、何にも考えられなかったのに。
「お嬢様?」
「……え?」
「どうかなさいましたか?」
ああ、駄目だ。気を抜くとぼんやりしてしまう。このところ、ずっと心配かけているだろうから、しっかりしないといけないのに。ターラの為に、しゃんとしなくては。
「……いいえ、何でもないですわ。それよりも、貴女、家族のところに帰りたいでしょう。ご免なさいね、私ったらぼんやりしていて、意思の確認を怠ってしまって……主人失格ね」
「とんでもない! 私はお嬢様のお側にいたいです! 帰したりしないでください! あ……!」
……ちょっと吃驚した。けど、何かすかっとした、かも。
「……すみません、大声を出したりして……。追い返されるかと思ったら、つい……。あの、私、お嬢様の侍女としてまだまだ至らないのは分かっています! でも頑張りますから! だからお側にいさせてください! お願いします!」
「……ふふふ」
誤解して焦ったように言い募るターラを前に否定もせずに笑うとか酷い。とは思えど何だか笑えてしまう。ごめん、ターラ。君が悪いわけじゃないんだ。理由は分からないけど、笑いが出てきちゃうんだよ。
「……お嬢様……」
ああ、ついにターラが情けなさそうな表情になってしまった。何とか笑いを抑えないと。咳払いをしたら止まるかな。
「……んん、ふう……」
よし、止まった。
「ご免なさいね。貴女が悪いわけではないのよ。なぜか笑えてしまって……本当にご免なさい。――それで、話は変わるけれど、ご家族は貴女が此方に来ることを了承していらっしゃるのね?」
「それは分かりませんけど」
「え?」
「でもきっと分かってますから。私がお嬢様から離れないのを」
ちょっと待って。
「……と言うことは、ご家族は了承していないんですのね?……そうですわよね、急でしたもの……。どうしましょう、家族を離れ離れにしてしまうなんて」
ターラのところは家族の仲が良いのに。あの家と違って。
「……フェイ伯父様に頼んでみましょう。そうすれば向こうに戻れるかもしれないもの。貴女はとても優秀だし……」
「お嬢様、待ってください」
「え?」
「私の話を聞いてくださっていました?」
「ええ。急過ぎて、手紙で状況を知らせるしかできなかったのでしょう?」
「それはそうなんですけど、そこじゃなくてですね……」
はあ、とターラに思い切り溜息を吐かれてしまった。なぜ。
「ターラ?」
「お嬢様」
「……はい」
ちょっと。ターラ、そんなに身を乗り出さないでよ、引いちゃうじゃない。おまけに何だかちょっと怖いんですけど。エリンに似ないでよ。怖いのはエリンだけで充分だから。
「これから私が言うことを、よーく聞いていてくださいね」
「……はい」
分かったから迫ってこないで、怖い。
「私はお嬢様のお側にいたいんです。お嬢様がお嫌でなければお側にいさせてください」
「……でも、ご家族は……」
「家族には手紙を書きましたから、大丈夫です」
「……でも……」
「……お嬢様は、私が側にいるのはお嫌ですか?」
あああ、ターラが肩を落としてしょんぼりしてしまった。そんなつもりじゃないんだって!
「嫌じゃありませんわ、嬉しいですわ! ただ、私は、ご家族と引き離したのが申しわけないと思って……」
「家族は問題ありませんから、それじゃあお側にいても良いんですね!」
……本当に良いのか? いや、良くないだろ。せめて別れの挨拶くらいさせてあげなきゃ駄目だろ……。何でそんなに嬉しそうなんだ、ターラ。こんな間抜けな主人に仕えるのが、そんなに喜ぶこと? 私だったら嫌だ。……自分で言ってて凹んだ……。
「……どうして、そんなことを言ってくれますの? 私、こんなに至らないのに……」
「とんでもない! お嬢様は本当に素敵なお嬢様です! 私の自慢のお嬢様です! そんなお嬢様にお仕えできるなんて! 私は幸せ者ですよ!」
ターラ、そんなに力説しないで、聞こえてるから。そうやって迫ってこないで、もう下がれないから、ソファの背凭れに阻まれて。
「あ……有り難う……。でもどうしてそこまで……?」
そうなんだよなあ。何でターラがこんな風に言ってくれるのかが分からない。
ちょっとターラ、そんなおかしなものでも見るみたいにきょとんとしないでよ。私は何もおかしなことは何も言ってないよ!
「それは決まってますよ。お嬢様のことが大好きだからです!」
ターラの満面の笑顔が眩しい。
私は、彼女にこんなことを言ってもらえるようなことを何かしただろうか。全く覚えがないのだけれど。
「お嬢様は私の自慢なんです。使用人にもいつだってお優しくて。私が初めてお茶をお出しした時を覚えていらっしゃいますか? 緊張していた私に笑いかけてくださって。エリンさんがいなくなったら、お菓子を分けてくださいました。あの時のお菓子は本当に美味しかったです。今でもはっきりと覚えています」
そんなの、何も特別なことじゃない。むしろ、最初の頃、私はターラを避けていた。それでもめげたり嫌がったりしないで、側にいようと頑張ってくれたのは、ターラだ。優しくて自慢なのは、ターラのほうだ。
「お嬢様はいつだってそうです。然り気無く気を配ってくださる。――だから私はお嬢様が大好きなんです!」
そんな大層なことなんて私にはできないし、できていないし、していない。
それでも。
こんな私でも、良いことをしていたのかな。
大好き、と、言ってもらえるようなことを。
――『誰よりも何よりも美しくて可愛い、私の可愛いシア。愛しているわ。それを、覚えていて』――。
――『私のいとおしいセーラ』――。
お母様の声が、聞こえた気がした。




