旅立ち
お守りを渡すと寝ぼけ爺さんは何やら「用事を思い出した」と言い残してそそくさと玄関へと消えていった。慌ててリビングを出れば寝ぼけ爺さんの姿はどこにも無かった。御年配にしてなんという素早さであろうかあっぱれである。わたしが惚れ惚れとしていると、ゲージにいる鴉がバッタンゴットンと暴れ回る音が聞こえた。わたしは小さな溜息を吐くと、暴れ回る鴉に近づき腰を下ろした。カアカア鳴いて何を言いたいのか皆目見当がつかなかった。仕方が無いと思ってゲージの入り口に手をかけ放してやれば、嬉しそうに飛び出し男へと戻った。
「あー、肩こった」
そう言い肩をグルグル回す男を見つめ、わたしは何とも言えない気分にさせられる。溜息を零すと、男はキョトンとした顔で「どうした?」と聞いて来る。わたしは何も言えずソファで丸く寝ているまんじゅうを抱き上げる。不満な声が聞こえたが華麗に無視を決め込む。
「それで、何しに来たんですか?」
わたしが呆れ顔でそう尋ねれば男は目をパチクリしては間抜けな顔でわたしを迎えた。丸い目を何度も瞬きを繰り返してわたしを見つめる。小奇麗な顔立ちをしていても中身を知っている為に惹かれる気持ちが一切沸いてこない。ある種の才能ではないかと思ってしまう。男はただ静かにわたしに向かい首を傾げて「へ?」と気の抜けた返事をする。わたしはその態度に思わずこめかみに力が入るのを察した。
抱きかかえていたまんじゅうへの力が強まってしまい、まんじゅうが悲痛な声を上げる。しかしわたしはそんな声を右から左へ流し、男を冷たい眼差しで見据えた。
「……まさか、本当にあんな”ゴミ”を渡しに来ただけなんですか?」
わたしは忘れない。数時間前にこの男がわたしに手渡してきた物に対する恨みを。何がハンガーだ針金だ。しかも他所から勝手に持ち運ぶなど言語道断だ。むしろ窃盗の罪で捕まって留置所にでも行ってしまえ。そして二度とわたしの前に姿を現さないでほしい。
男もわたしの言いたいことが分かっているのか少々慌てふためきながら、必死にわたしを宥めに入ろうとする。しかし、男の行動に改善の余地が無い時点で宥められても意味が無い。
けれど何度も言うがこの男は鴉なのである。鴉に人間の常識など微塵も理解できないであろう。何しろゴミを漁りゴミの中から餌を得ようとする生物だ。次元が違う。ならばどう説き伏せればいいのだろうか。もう訳が分からない。
「い、いや、そう言う訳ではッッ!!」
男はつっかえつっかえの言葉で必死に何かを言おうと目論む。まるで浮気がバレてそれを必死に取り繕おうとする間男のように見えた。ドラマの見過ぎであろうか? なんだかとても男が情けなく見えてきた。加えて哀れにも。溜息が零れ落ちる。重くなる頭がさらにずっしりと重く圧し掛かる。まるで漬物石のようだ。
「なら、何の目的で此処に?」
「だ、だからそれは恩返しで……」
正直な所だが恩返しが傍迷惑だということに気がついてくれないだろうか。いや無理であろう。思考が一気に遠くの彼方へと動きだす。とうとう脳が現実を受け入れたくない体勢を取り始めた。
そんなわたしのことなど眼中にない男は必死に頭を悩ませ視線を彷徨わせていた。するとある一点、男が視点を定めたものがあった。男はそれを見つめ独り言のようにポツリと呟いた。しかしその呟きは至近距離にいたわたしの耳にも見事に入るほどの声音であったので、わたしは即座に返答した。
「君、本が好きなのかい?」
「……それが何か?」
思わずぶっきら棒な喋り方になってしまったが仕方が無い。許して欲しい。男はまさかわたしに聞こえているとは思っていなかったせいなのか、身を震わせギョッとした眼でわたしを見た。その眼はどこか有り得ないといった言葉が書かれてあった。わたしはその姿に頬を引きつらせ、こめかみを抑えた。
(この鴉、いったいどうしてやろうか?)ほぼ脳内では鴉の殺害計画が着々と練られていた。もう古新聞しを縛る為に使うビニール紐で縛っても良いのではないだろうか。ああでもそんな事したら動物愛護団体から怒られてしまう上に、下手をすれば法の下で罰せられてしまう。ならばせめて想像の中で楽に殺そう。うん、思うだけならば自由である。自由って素晴らしい。
疲れているせいかややアホな会話が脳内で繰り広げられウンウンと一人頷く。気がつくと自分が哀れに思えてきてしまった。本当にどうかしている。
思考を切り返る為に頭を振れば、男がなにか閃いたかのように「そうだ!」と言う明るい声と一つの手叩きが聞こえた。なんだなんだと思い男を見れば男は目を爛々と輝かせてわたしを見つめていた。なんでだろうか背筋がゾクッとまるで背中に氷を入れられた時のような不快感に襲われる。わたしの口元が思わず引きつる。
さて、そんな引きつるわたしのことなど眼中に無い男は、わたしを見つめている眼差しを何故か床へと移して、何やら口を抑えブツブツとうわ言のように何かを言い始めた。ハッキリ言って不気味で近寄りたくない。この状態が街中で無くて本当に良かった物だ。下手をしたら職質されてお縄を頂戴されるだろう。……むしろそれが良いのではないだろうか? というより今から電話をかけて不法侵入罪と嘘八百述べれば良いだけの話だ。うん、それで行こう。
わたしの類い稀な頭脳が如何なく発揮され「よし!」と声には出さないが軽い調子の良い気合を入れ、わたしは電話が置いてある場所を目指した。
しかしどうした事だろう。二歩、三歩、と歩いただけでそれ以上前に進まなくなってしまった。流れに沿うまま後ろを振り返れば男の薄気味悪い綺麗な笑みが見えた。不気味だ。小奇麗なだけに綺麗と恐怖を両方出せるのは寧ろ天性の物なのかもしれない。わたしには入れない物だが。
「……なんですか?」
念のために疑問を口にすれば、男はまるで待っていた、とばかりの顔で得意げに説明し始めた。
「いや何、君が本が好きならばその願いをかなえてやろうと思ってな。
なに安心するが良い、大鴉に出来ぬ事などこの世に無い。
少し君が好きな本の世界へ行き、摘まむ程度の体験をするだけだ。
ああ安心しろなにも一人で行かせはしない。
俺も一緒に君と本の旅をしよう。
人間の世界で言う所の”逢引”と言うのだうか?」
いきなり語りだす内容に、わたしは意識が軽く遠のき目眩まで起こる始末だった。男は好きなだけ方便を解けば、掴まれていないもう一方のわたしの手を取った。
男の目は爛々、わたしの目は屍。これ以上ない言葉の表しだろう。
「よし、準備は整ったぞ!
さあ行こう!!」
誰も了承の意を述べて無いのにも拘らず、男は高らかに言いきった。抗議の声を上げようとした瞬間、わたしの目の前が真っ黒に染まり男の姿が書き消えてしまった。しかし唯一、手を握る男の握力だけが残された。
わたしはこれまでに無いほど啓発だった自分を恨む日は無かった。




