第三話:その斥力は、静寂を加速する(その2)
陽菜が左足を踏み出す。右足に重心が移るためにグラつくが、カツリ、とヒールの音が響いて一歩先に進む。
次に右足を踏み出す。――ボヨン!
気の抜ける音とともに、リノリウムの床が蜘蛛の巣状にひび割れた。陽菜の体は重力から解放されたかのように、容赦なく天井へと射出される。
「あ」と一言、無表情・無抑揚のまま陽菜の体が斜め上へとポップアップし、そのまま萬屋の壁に向かって綺麗な放物線を描いて飛んでいく。
「おい、危ない! 止まれ!」
「問題ありません。軌道を修整します」
陽菜はコンクリートの壁に激突する直前、空中で身を翻し、右足を壁に向けた。
――ボヨォォォンッ!!
壁を蹴った右足がさらに強力な斥力を生み出し、今度は事務所の天井へ向かって、まるでピンボールの球のように跳ね返る。
「予測軌道の修正を実行。天井にて再度、衝撃吸収を兼ねた減速を行います」
――ボヨン!
「おい!! 人の実家で空中アクロバットを展開するな! 昭和から使っている蛍光灯が割れたらどうするんだ!」
無表情・冷徹ボイスのまま、事務所の壁と天井をボヨンボヨンと高速で跳ね回り、最終的にパイプ椅子の座面に、何事もなかったかのようにピタッと美しく着地(着席)した幼馴染を見て、俺は激しい眩暈を覚えた。
視覚情報と聴覚情報のギャップで脳がバグりそうだ。
「お前……喋り方は冷徹無比なキャリアウーマンなのに、やってることが完全に往年の名作ゲーム『マッ◯ー』か『◯ル◯ルランド』なんだよ。シュールすぎるから、そんな冷たい真顔で跳ねるんじゃない」
「笑い事ではありません。現在の私の跳躍メカニズムを精神力学的に分析するに、これは私の『これ以上、理不尽な誰の軍門に降るのも拒絶する』という強固な自立心が、物理的な『地面への拒絶』として右足に具現化したものと推測されます」
「軍門ねぇ⋯」
「つまり、先週金曜日に言い渡された、石崎部長の『アタック999』とかいう謎の精神論発言に対する、私の精神的ディフェンスシステムが過剰防衛を起こした結果です」
「冷徹なトーンで自分の精神的バグを完璧に自己分析するな。悲壮感が皆無なんだよ。だったらその鋼のメンタルでバグごと捩じ伏せろ」
「ですが、実害は深刻です。この状態では、丸の内のオフィスを歩く際、一歩ごとに天井の吸音パネルに激突することになります。社内における私のプレゼンスが『物理的に浮いている社員』として固定され、今後のキャリア形成において致命的な瑕疵が生じます」
陽菜はサングラスのフレームを人差し指でクイと上げ、極めてシリアスな、世界滅亡を阻止するエージェントのような声で言った。
「嵐水。本日午後1時30分より、石崎部長との、命運を賭けた進捗報告リモートミーティングが控えています。私はこれに『完全に両足が接地した状態』で参加しなければなりません。デバッグの時間的余裕はありません」
俺は自分の前髪を乱暴にかきむしり、天を仰いだ。
大学院の流体力学の研究室を休学し、親父の遺したこの何でも屋『風見萬屋店』を継いで半年。スパゲティ・プログラムの解読だけでも脳が焼き切れそうなのに、毎週月曜日、この幼馴染は俺の想定の斜め上を(今回は文字通り物理的に)跳んで現れる。
その駆け込み寺であるこの油臭い事務所に、陽菜以外の女っ気は皆無だ。
偏西風を追いかけて「ちょっと風の向きを見てくる」とカリフォルニアへ消えたオフクロ・風見亜希子は、今日も地球のどこかで風に吹かれているのだろう。
引き合うはずの家族の引力すらとうに壊れているこの家で、俺は今、右足だけ引力を失った幼馴染と対峙している。
「……いいだろう、通勤時間を考えると12時半がタイムリミットだな」
俺は工具箱から、年季の入ったツナギのポケットへ工具を容赦なく引っ掴んで突っ込んだ。
外は五月晴れの快晴、絶好の週明けだ。だが、陽菜がその足で一歩でも外に出れば、地元の街中で『人間スーパーボール目撃騒動』として瞬く間にSNSに拡散され、トレンド入りを果たすだろう。
俺は本日何度目か分からない重い溜め息をつき、入り口の重いシャッターの鍵をガリガリと固く閉めた。
「嵐水、そうやってやれやれ顔で状況を絶望視するのはやめてください。私のキャリアがかかっています。開発を急いでください」
どうやら今週の月曜日も、あの錆びついたシャッターを堂々と上げるには、一仕事も二仕事も足りないらしい。
右足が地面を、重力を、世界のルールを拒絶しても――この日向陽菜という不条理な幼馴染は、なぜか毎週、迷わずに俺のところへ戻ってくるのだった。




