第三話:その斥力は、静寂を加速する(その1)
俺はまだ知らなかった。
この日の陽菜の右足が、萬屋の天井を何度も破壊しかけ、俺の胃壁に新たな潰瘍を刻み込むことになるのを。
「デバッグを要求します」
冷徹な声でそう言われた瞬間、背中に嫌な汗が流れた。
月曜日は、いつもこうだ。週の始まりは、決まって俺のキャパシティを物理法則ごと置き去りにしていく。
五月の下旬。暦の上では初夏だが、すでに梅雨の気配をたっぷりと孕んだ生暖かい風が、古びたシャッターの隙間から入り込んでくる月曜日の朝。
俺――風見嵐水は、実家の『風見萬屋店』の薄暗い事務所で、三週連続となる盛大で、かつ絶望に満ちたため息を吐き出していた。換気扇の回る虚しい音だけが、やたらと大きく耳に届く。
目の前には、何故か片足立ちのまま、寸分のブレもない規則的な動きでスマホの画面をタップしている幼馴染の姿があった。
「拒絶します、嵐水。現在のこの発声トーンおよび思考ロジックは、先週貴殿が私に施した『精神的流体スタビライザー』の残存効果、いわば精神デトックスの最中です。非常にロジカルであり、業務効率は先週比で145%を記録しています」
「⋯⋯」
「丸刈りぶちょ――失礼、コンプライアンス的に表現を修正します、石崎部長からの非合理的なタスク群も、すべて論理の刃で解体し、先週金曜日の17時00分時点で完全処理を達成しました」
日向陽菜は、顔の半分を覆うような大きめの黒いサングラスをかけたまま、感情の起伏が一切消え失せた冷徹な美声で言い放った。
先週の磁力バグを抑え込むために、彼女の脳へダイレクトに流し込んだホワイトノイズが効きすぎているのだ。
完全に『感情を忘れたターミネーター系総合職』と化していた。あのバリバリと仕事をこなす大手商社のエリート精神が、最悪の形で純化されている。
磁力バグ自体はいつの間にか治った様なので、俺が開発した『アクティブ・ノイズキャンセリング磁気シールド・スリーブ』はお役御免となったわけだが、どういうわけか彼女は『精神的流体スタビライザー』の設定解除を頑なに拒み、外したがらない。
「効率が上がったのは結構だが、お前、今朝ここに入ってきたときの第一声が何だったか覚えてるか? 『風見嵐水、当方のシステムに本日分の不条理バグが検知されました。速やかなデバッグを要求します』だぞ。朝一番に幼馴染にかける言葉かよ。普通は『おはよう』とかだろ」
「事実を客観的かつ最短ルートで伝えたまでです。無駄な挨拶は業務効率を著しく低下させます。現に、私のこの『右足』を見て、なおそのような悠長なセリフが出せるのであれば、貴殿の危機管理能力、および萬屋としてのプロ意識を疑わざるを得ません」
陽菜が、仕立ての良いネイビーのスラックスから覗く右足を、スッと前に差し出した。薄手のストッキングに包まれた、滑らかで細い足首。一見すると、どこにでもある健康的な20代女性の足にしか見えない。
「右足がどうした。今回は強烈な磁場も発生してないし、焦げ臭い煙も吹いてないだろ」
「視覚情報に惑わされないでください。網膜ではなく、空間の物理的干渉を確認せよ。――これから右足を床に接地させます。……注視せよ」
陽菜が無表情のまま、ピンと伸びた右足をゆっくりと床に下ろした。その足裏が、灰色のリノリウムの床に触れた、まさにその瞬間。
ボヨォォォンッ!!
昭和のギャグ漫画のような、実におマヌケで、かつ緊張感の抜けるエフェクト音が事務所の壁に反響した。
陽菜の右足の裏が床に触れた瞬間、そこだけ空間が超高反発のトランポリンか、目に見えない巨大なゴムまりに変化したかのように、彼女の華奢な体が天井に向かってフワリと、だが猛烈な勢いで跳ね上がったのだ。
「……は?」
「確認できましたか。これが本日分のバグです」
陽菜は剥き出しの天井板に頭をぶつける寸前、空中で見事な三半規管のコントロールを披露し、まるで着地する猫のように綺麗に体勢を整えた。
いや、正確には『着地』ではない。彼女の右足の裏が床に近づくと、磁石の同極同士を無理やり近づけたときのような、強烈な『反発力(斥力)』が物理的に発生するのだ。
結果として、彼女の右足は床から常に数センチ浮いた状態で、ボヨボヨと楽しげに上下に揺れていた。
「生体反重力フィールド……いや、違う。右足の裏だけに限定されている点、および落下速度や荷重に応じた比例反発を見せることから、これは『局所的空間弾性バグ』だ。物理的に言えば、お前の右足の裏の空間だけ、ヤング率が地球上の物質ではあり得ない異常数値を叩き出している」
「専門用語によるお茶濁しおよび現実逃避は不要です、嵐水。私の左足は現在、地球の重力に従順ですが、右足のみが強烈に『床』を拒絶しています。この非対称な状態で歩行を試みると、どうなるか。……実演します」
――俺の脳内で警告音が鳴り響いた。もし彼女がこのまま一歩でも踏み出せば、事務所の床が「バグ」の反発力で粉砕される。だが、止める間もなかった。




