第三話:その斥力は、静寂を加速する(その3)
萬屋の事務所は、いまや物理学の実験場と化していた。
宙を舞う工具、重力に逆らって天井を叩くハイヒール。俺は工具を握る指先が白くなるほど力を込め、狂った物理法則との格闘を続けていた。
大型重機のディーゼルエンジンが唸るような、腹の底に響く低音が萬屋に響き渡っていた。
その凶悪な音の正体は――作業台の上に投げ出された幼馴染の右足に装着された、どう見ても中世の暗黒期に使われていた拷問器具、あるいは脱獄不可能な監獄の足枷だった。
「嵐水、進捗を報告してください。タイムリミットまであと30分を切っています」
サングラスの奥から放たれるその冷徹な音声が、狭い室内の空気と混ざり合い、逆にこちらの恐怖を煽ってくる。
午後12時丁度。風見萬屋店の事務所には、まるで大型のプレス機か、あるいは基礎工事の重機が地盤を叩いているかのような、凄まじい地鳴りに近い低音の駆動音が鳴り響いた。
当の陽菜は、油の染みた木製の作業台の上にすらりと長い右足を乗せ、無表情のまま椅子に座っている。
だが、その細い足首には、俺が親父の遺品から回収した『重機用油圧シリンダーの廃パーツ』と、倉庫の奥底に眠っていた『超高比重のタングステン合金粉末』を強引に練り合わせた、見るからに禍々しい金属塊が鈍い光を放ちながら固定されていた。
「進捗を確認します、嵐水。私の右足に課せられたこの総重量は現在、何キログラムに達していますか? 大腿四頭筋への負荷が、先ほどの12倍に跳ね上がっています」
「文句を言うな。片足だけで約525キロだ。お前の右足が地面を蹴る瞬間に発生する『有効弾性率』を逆算した結果、小細工なしに物理的な質量でねじ伏せるのが最も早いと判断した」
「なるほど、質量によるクランプですか」
「だが、ただの重りじゃない。このアンクレットの内部には、強い衝撃や反発を検知した瞬間だけ分子構造が緊密化し、急激に重量と粘性が増す『変態的非ニュートン流体』が仕込んである」
「非ニュートン⋯?今、変態的って言いましたよね?早口で言ってもごまかされませんよ」
「この流体理論の詳細は企業秘密、というか俺のオリジナルだ。お前がボヨンと跳ねようとした瞬間、空間の斥力を感知して、瞬時に525キロの超硬質鉄塊が出来上がり、地球の重力を味方につけてお前の右足を無理やり地面にステイさせる」
「⋯それでは歩けないのでは?」
「だから、右足を上げる瞬間には2キロのアンクレットに元通りになるわけだ。名付けて『グラビティ・ストライカー』だ」
「なるほど。動的カウンターウェイトということですか。アプローチとしては非常に合理的です。では、動作テストを行います」
陽菜が無表情のまま、作業台からその物々しい右足を床へと下ろした。
――ドンッ!!!
地響きのような重低音が萬屋の床を激しく揺らし、棚の上の工具がチャリチャリと音を立てた。
陽菜の右足裏の空間は、今なお必死にボヨンと彼女を天空へ跳ね上げようと反発している。だが、525キロの超重量と非ニュートン流体の粘性マトリクスがそれを完全に、力技で相殺。右足はミリ単位も浮き上がることなく、リノリウムの床にガチッと固定されていた。
「素晴らしい。完全に接地しています。これで丸の内の床を踏みしめ、重力に魂を縛られた一般社員として歩行することができます。嵐水、貴殿の極めて泥臭い技術力に、当方の5つ星を付与します」
陽菜は感情のいっさい籠もらない声で淡々と称賛を述べると、ブランド物のビジネスバッグを右手で無造作に掴み、パイプ椅子から立ち上がった。そして、胸を張って颯爽と歩き出そうとした、まさにその瞬間。
……ズシン! ……ズシン!
「あ」と、陽菜が本日初めて、ほんのわずかに眉をひそめて表情を崩した。
左足を踏み出すときは、右足に重心が移るために若干グラつくものの、いつもの軽いキャリアウーマンの足取り。カツリ、と軽快だ。
だが、右足を踏み降ろそうとする瞬間、床との反発を検知して525キロの鉄塊が牙を剥く。一歩歩くたびに、部屋全体の埃がブワッと舞い上がるほどの衝撃が走る。
「…前言を撤回、および評価を保留します。これでは丸の内のオフィスを歩く際、完全に『東京に上陸した世紀の大怪獣』あるいは『都市機能を蹂躙する巨大兵器』です」
「B級映画そのものだな」
「笑い事ではありません。一歩ごとに床の免震構造を限界突破させ、社内における私のキャラクターイメージが、有能なマスコット枠から『国家非常事態宣言枠』に移行してしまいます。クライアントが契約書にサインする前に、オフィスビルから避難を開始します」
「だから大人しく座れと言っただろ、このポンコツマシーンめ。これだから脳内をノイズでロックされた奴は視野が狭くて困る」
俺は歩く人間凶器と化した陽菜の肩を強引に押し戻し、再びパイプ椅子に座らせた。




