第三話:その斥力は、静寂を加速する(その4)
「お前は午後1時30分から『リモート会議』だと言ったな? だったら、そもそも丸の内のオフィスに行く必要なんて最初からないんだよ。ここで、その冷徹キャリアウーマンモードのまま、萬屋の回線を使って画面越しに石崎を論破すればすべて解決する」
陽菜はサングラスの奥の大きな瞳を、パチパチと瞬かせた。
「……盲点でした。リモートワークという選択肢を完全に失念していました。スタビライザーの影響で、効率を求めるあまり『出社して直接、物理的なエビデンスを相手のデスクに叩きつける』という物理攻撃に思考が偏っていたようです。……しかし懸念事項が一つ」
「⋯なんだ。言ってみろ」
「では、この禍々しい足枷には何の意味があったのですか?」
「細かいことは気にするな。半分は俺の意地悪と実験だ。よし、最高のリモート環境を構築してやる。お前はカメラに映る上半身だけ、その完璧なオフィスカジュアルを維持しろ。画面の向こうの石崎には、お前の右足が世紀の大怪獣になってるなんてわかりゃしない」
俺は親父の遺した古いデスクトップパソコンの、やたらと分厚いモニターを強引に回転させ、即席のHD Webカメラをセットした。
背景には、それっぽく洗練されたオフィスに見えるように、萬屋の油臭い作業棚や工具を隠す、白いロールスクリーン(親父が昔、プロジェクターでB級映画を見るためだけに買ったガラクタ)をガラガラと力任せに下ろす。即席のバーチャル風オフィス取調室の完成だ。
午後1時30分ちょうど。耳障りな接続音とともに、画面の中に丸刈りがトレードマークの石崎部長の顔が映し出された。
『あ、日向ちゃんーん? 聞こえる? あれ、今日リモートなんだ? なんか背景が真っ白で、警察の取調室にいるみたいだねぇ! ワハハ! アタック999、今日はどんな鋭いサーブを見せてくれるのかな?』
相変わらずのゆるキャラ扱いと、昭和のバレーボール漫画から引用したであろう、くだらない精神論のいじり。
普段の陽菜なら、ここで悔しさに顔を赤くして雨雲を発生させるか、怒りで磁力を跳ね上げているところだ。
だが、今の彼女の耳の裏には、まだ俺の『精神的流体スタビライザー』のホワイトノイズが微かに流れており、その脳内は冷徹無比なサイボーグのままであった。
陽菜はサングラスを外さず、無表情のままカメラのレンズをまっすぐに見つめ、信じられないほど冷たく、鼓膜が凍りつきそうな美声でナビゲートを開始した。
「石崎部長。当方からの週次進捗報告を開始します。なお、前置きとして指摘しますが、私の姓は『日向』です。今期、通算24回目となる呼称エラーを検知しました。貴殿の記憶デバイスのセクタ不良、あるいは認知リソースの著しい枯渇が懸念されます。業務に支障が出る前に、速やかなOSのアップデート、もしくは専門医への受診を強く推奨します」
『え……? あ、う、うん……?』
画面の向こうで、石崎部長の安っぽい笑顔がみるみる青ざめ、引き攣っていく。
「続きまして、先ほど共有された売上予測データの数理的整合性について指摘します。この3ページのグラフ、流体力学における圧力勾配で言えば、下流の抵抗値を完全に無視した破綻した数式と同義です。端的に申し上げて、小学生の机上の空論、あるいは願望の羅列です。15分以内に当方で算出した修正案をそちらのサーバーへ上書き保存しますので、文脈を正確に理解し、脳内をアップデートした上で承認タスクを完了させてください。以上です。何か有効な質問は?」
『あ、いえ、ありません……。ひゅ、日向さん、よろしくお願いします……』
あの自己中心的にガサツ、精神論が服を着て歩いているような石崎部長が、画面の向こうで完全に蛇に睨まれた蛙のように怯え、縮こまり、最終的にはペコペコと敬語になっていた。完璧な論理の暴力による制圧完了。
プチッ、と一方的に通話が切れた瞬間、萬屋の事務所に心地よい静寂が戻った。
と同時に、陽菜の耳元でピピッと軽快な電子音が鳴り響き、『精神的流体スタビライザー』のバッテリーが完全に切れた。




