第三話:その斥力は、静寂を加速する(その5)
「……あれ?」
陽菜がゆっくりとサングラスを外し、自分の両手を見つめる。
その瞳には、先ほどまでの氷のような冷徹さは消え失せ、いつもの人間味のある感情の光が戻っていた。脳のプロテクトが解除されたのだ。
「あ、嵐水……! 私、今、石崎部長になんてこと言っちゃったの!? 記憶はハッキリあるんだけど、信じられないくらい冷酷で生意気な言葉が口からスラスラ出てきて……! 嫌だ、どうしよう、私、明日から会社で『丸の内の氷の女王』とか『サイコパス日向』って呼ばれちゃう!」
いつもの、ちょっと気が強くて、でもすぐにキャパオーバーになって焦る等身大の陽菜に戻ったその瞬間。床にガチッと固定されていた右足のアンクレットが、フッと軽くなった。
彼女の心の中から『周囲への拒絶(斥力)』が消え去ったことで、右足の裏の空間弾性バグが完全に自然消滅したのだ。
「だから言っただろ。お前の『これ以上誰の軍門にも降らない』っていう拒絶の意志が引き起こしたバグだ。冷徹モードのまま石崎を完膚なきまでに論破したことで、お前のプライドと防衛本能が完全に満たされた。だから空間の平衡状態が戻り、バグも解けたんだよ」
「満たされたっていうか、ちょっと社会人としてやりすぎた気がするんだけど……。でも、あの部長が初めて私を『日向さん』って呼んで大人しくなったのは、正直、ものすごくスカッとしたかも……」
陽菜は頬を少し赤らめ、照れくさそうに小さく笑うと、右足の重いアンクレット(バグが消えて、もうただの2キロ程度の鉄クズに戻っている)をガタガタと外して立ち上がった。
「やれやれ、萬屋の高度な科学技術、今回はリモートワークの白い背景布としてしか役に立たなかったな」
俺は苦笑しながらロールスクリーンを勢いよく巻き上げ、作業台の上のタングステン粉末を片付け始めた。
「ううん、そんなことない。嵐水がこうしてリモートの環境を整えてくれなきゃ、私、今頃あの丸刈り部長のデスクの前で、ボヨンボヨン天井に跳ねつつ冷酷に論破するっていう、ただのバイオレンスな妖怪になってたもん。……本当に、助かったわ。ありがとね」
開け放たれた窓の外からは、すっかりオレンジ色に染まった夕暮れの心地よい風が、潮の香りを乗せて吹き込んできた。
「明日はちゃんと出社しろよ。石崎がもし怯えてたら、優しく『ひゅうがです』って微笑んでやれ。そのギャップで今度は社内の飴と鞭の女王になれるぞ」
「だから、変な二つ名を増やそうとするのやめてってば! ……でも、名前はちゃんと覚えてもらえそうね」
陽菜はいつもの太陽のような、少し勝ち気で眩しい笑顔を取り戻し、「じゃあね、嵐水!」と大きく手を振って、萬屋の裏口から自分の家へとトコトコと帰っていった。
弾むような足取りだが、今度はもう、世界のルールを無視して1ミリも宙に浮くことはない。
一人残された薄暗い事務所で、俺は自分の前髪を乱暴にかき上げた。結局、午前中に片付けるはずだった地元自治会から依頼された草刈りドローンの試作開発は、完全に夜へと持ち越しだ。徹夜が確定した。
大学院を休学して、親父の残したこの古臭い何でも屋を継いだときは、自分の学んできた流体力学や知識の使い道なんて、この錆びついた街にはないと思っていた。
だが、まさか幼馴染の『心のバグ』を、リモート環境と非ニュートン流体でコントロールすることになるとは、人生わからないものだ。
「まぁ、あのオフクロが世界のどこかで勝手に気圧をかき混ぜているせいで、お前の心の気圧配置まで狂ってるんじゃないかと、今でも本気で疑ってるけどな」
俺は誰もいない事務所で、カリフォルニアの空に向かって小さく毒づき、パソコンのキーボードを叩き始めた。
毎週月曜日、形を変えて襲いかかってくるこの理不尽な異常現象。だが、俺たちは、少しずつだがこの不条理に対する最適解を、確かに導き出し始めている。
さて、と。
俺は作業着の袖を乱暴にまくり上げ、ずっと閉ざされていた入り口へと歩み寄った。
赤錆びた取っ手を掴んで一気に引き上げると、ガラガラとけたたましい金属音を立てて、夕暮れの心地よい夜風と、街の明かりが事務所の中に一気に流れ込んでくる。
コメディだろうがSFだろうが、目の前のバグはねじ伏せた。大幅に遅れちまったが、萬屋の本当の仕事はここからだ。
俺はようやく、店の重いシャッターを、上へと力強く跳ね上げた。
——そして数日後、陽菜のスマホに届いたのは、石崎部長の最終通知だった。




