第四話:その境界は、不条理に溶ける(その1)
月曜日が来なかった。
それだけで、世界のどこかで人知れず噛み合っていた精密な歯車が、音もなく静かに外れた気がした。
陽菜の巻き起こす奇妙なバグも、萬屋の古びた事務所に響き渡るいつもの喧しい騒音も、何一つとして起きない。
その静寂こそが、耳の奥が痛くなるほどの不気味な無音が、この世界が決定的な破綻を迎える最初の異常だったのだと、俺は後になって思い知ることになる。
五月の最終月曜日。
いつもなら、日向陽菜は自分では制御しきれない不条理なバグをその身に抱え、半泣きになりながら萬屋の木製の扉を蹴破るようにして駆け込んでくるはずだった。
だが、時計の長針がどれだけ回ろうと、待てど暮らせど彼女の姿は現れない。
錆びついたシャッターの向こうには、ただ気味の悪い静けさが横たわっているだけだった。
代わりに、俺のスマートフォンの画面を「ヴヴッ」という短い無機質な振動とともに静かに光らせたのは、機械的で冷徹な大手ニュースアプリからの速報通知と、その直後に繋がった、ひどく取り乱した陽菜からの、今にも消え入りそうな震える声だった。
――石崎部長が、死んだ。
オフィスへ向かういつもの通勤途中、かねてより深刻なパワハラによって精神的にうつ状態まで追い込まれていたという元部下に、背後から狂器で襲われたとのことだった。
陽菜の心を絶え間なく蝕み、毎週のように不条理なバグを抱えさせていたストレスの最大の元凶。それが、この世界から永久にデリートされた。
これ以上ない最悪の形でもたらされた、歪で一方的な解放――だがそれこそが、すべての崩壊へと突き進む最悪のトリガーだった。
不条理がその凶悪な本質の牙を剥いたのは、翌週の金曜日の朝のことだ。
スマートフォンが不快な高音で鳴り、画面に表示されたのは陽菜からのLINEだった。だが、そこに並んでいたのは言葉ですらなかった。
『 縺ゅi縺吶> 縺溘☆縺代※ ――― 』
句読点すらなく、デジタルノイズがそのまま文字になったかのような、意味不明な文字列。
ゾッとするようなその画面を見た瞬間、俺は作業を中断し、ただごとのデカさを本能的に察して裏口の重い閂を跳ね上げた。
勢いよく滑り込んできた陽菜は、顔の半分を覆うような大きめの黒いサングラスを外すことすら忘れたまま、俺の着ていたヨレヨレの作業用つなぎの胸ぐらを両手で必死に掴んできた。
彼女の指先はまるで氷塊のように冷たく、ガタガタと小刻みに、肉体そのものが拒絶反応を起こしているかのように震えている。
「嵐水、世界が……世界が、私を忘れていってるの。私自身も、どこかに消えちゃいそうなの……!」
陽菜の放ったその言葉は、パニックに陥った人間の比喩でも、精神的な錯乱でも何でもなかった。
彼女が震える手で差し出してきたスマートフォンの液晶画面を見せてもらうと、そこでは恐ろしい超常現象が、恐ろしいほどのリアルタイムで進行していた。
先ほど俺の端末に届いた文字化けを皮切りにするように、画面の中の連絡先リストが、上から順番にチカチカと不規則に変色し、まるで熱で溶けた映画のフィルムか、あるいは乾いた砂のようにパラパラと消えていく。
陽菜の親の連絡先も、これまでに彼女が必死に築き上げてきた同期済みのSNSのアカウントも、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように、データごと完全に抹消されていくのだ。ログすら残らない。
それだけではない。陽菜が今朝、自分の部屋の鏡を覗き込んだとき、鏡の中に映る彼女自身の輪郭が、まるで解像度の著しく低い粗いモザイク画像のように、おぞましくブレて歪んでいたという。存在のピクセルが崩れている。
「……これは、単なる幻覚じゃない。論理的な、存在の抹消だ」




