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第四話:その境界は、不条理に溶ける(その2)

「最初は会社の人たちだったの。石崎部長が亡くなってからすぐ、人事部のメインデータベースから私の名前が綺麗に消えて、同僚のLINEグループからも私の存在自体がなかったことにされて……」


「待て、陽菜《はるな》。だったらなんで、もっと早く俺のところに来なかった! 会社でおかしくなり始めた時点で、月曜日でも火曜日でも、ここに駆け込めばよかっただろ!」


 俺の叫びのような問いかけに、陽菜はサングラスをかけたまま、ぽろぽろと大粒の涙をこぼして首を振った。


「行こうとした……! 何度も、何度も嵐水《らんすい》のところへ行こうとしたの! でも、世界がそれを許してくれなかった……!」


 陽菜《はるな》の口から溢れ出る狂ったクロニクルを脳内でトレースし、俺は背筋が凍りつくのを覚えた。


 それは、ただ一瞬で世界が反転したわけではなかった。日向《ひゅうが》陽菜という存在のインフラが、一週間以上の時間をかけて、じわじわと、だが確実に外堀から解体されていったのだ。


 ストレスの錨であった石崎部長が消滅したあの月曜日、陽菜の存在確率をこの世界に繋ぎ止めていた数式のバランスは、密かに崩壊を始めていた。


 続く火曜日から木曜日にかけて、彼女はまず社会から拒絶された。

会社の勤怠システムにログインできなくなり、人事データから名前が消失した。


 同僚に必死に話しかけても、「えっと、どちらの部署の方でしたっけ?」

と、彼らの記憶は霧のように霞んでいった。


 金曜日には社内のLINEグループから、強制退会ではなく『存在そのもののログ』が消えた。


 正式な観測を失った彼女の存在ポテンシャルは、日を追うごとに散逸していく。


 さらに翌週の月曜日を過ぎる頃には、公的・経済的な生存権すら剥奪された。


 銀行口座が『該当口座なし』で凍結されてクレジットカードは全損。マイナンバーや住民票のシステムを役所の窓口で叩いても、画面には『該当者データは存在しません』の冷たいアラートだけが明滅した。


 そして昨日、木曜日。最後の砦が崩壊した。


 実家の自室のドアを開けると、そこは陽菜の部屋ではなく、ただの物置に変わっていた。


 彼女の服も、アルバムも、彼女がこの世に生きてきた痕跡が最初からなかったように消滅していたのだ。


 徐々に、だが容赦なく包囲網を狭めるようにして、彼女は明確な質量を持った『定常流』から、いつ霧散してもおかしくない『非定常な層流の末端』へと格下げされていった。


 デジタル、社会、公的記録、そして最後に、もっとも強固な初期条件であるはずの血縁の記憶すらもが、世界の自動修復機能によって綺麗に層流から排除され、境界条件そのものが書き換えられていく。


「それにね、駅の改札を出てここに向かおうとするたびに、路地に足を踏み入れた瞬間に空間がぐにゃりと歪んで、気づけば全然違う通りに弾き出されちゃうの。スマホで地図を見ながら歩いても、どうしても萬屋《よろずや》にだけは辿り着けなくて……。嵐水《らんすい》に電話をかけようとしても、指が画面に触れた瞬間に『圏外』になってメッセージも全部エラーで消えちゃう。昨日なんて、私の履歴から『風見嵐水《かざみらんすい》』って名前自体が完全に消えちゃって……!」


 世界がバグの解析者である俺と陽菜を接触させまいと、隔離工作を行っていたのだ。


 それどころか、俺の側にも影響は及んでいた。この11日間、俺の脳裏には不思議なほど『日向《ひゅうが》陽菜』という存在が浮かんでこなかった。


 思い出すためのトリガーそのものが、世界の因果律によって巧妙に遮断されていたのだ。


 昨日、作業台の上で見つけた、彼女が置いていった『グラビティ・ストライカー』の設計図を見て、俺は「……これ、何のために作ったんだっけ?」と、ひどく不自然な記憶の空白に小首を傾げていた。


 そしてこの期間、実は俺は異世界に転生していたのだ。これは今回の件とは直接関係がないので別の機会に話そうと思うが、今にして思えば、それすらも世界のシステムが施した記憶の改ざんだったのだ。


「昨日の夜、私、嵐水の顔すら思い出せなくなりそうになって……。今朝、お父さんたちに忘れられた瞬間、全ての社会的繋がりが絶たれた代わりに、なぜか世界の隔離プロテクトがほんの一瞬だけ緩んだの。だから、今を逃したら、私一生嵐水に会えなくなると思って、靴も履かずにここまで走ってきたのよ……!」


 外堀を埋められ、通信を絶たれ、認識を阻まれ、完全に世界という巨大な檻の中に閉じ切られていた11日間。


 一人きりで、自らの存在確率がゼロへと層流の如く収束していく底なしの恐怖と戦い続けていた幼馴染の絶望の深さを思い知り、俺は奥歯が痛くなるほど強く噛み締めた。


「……怖くて居間に降りていったら、お父さんもお母さんも、私の顔をじっと見て『どちら様ですか? 便利屋さんですか?』って……! 私はここにいるのに! 私の声が届いているのに! 誰も私を認識できないの!」


俺は震える彼女の肩を掴んだ。その瞬間、彼女の身体を透過して、背後の壁の模様が透けて見えた。物理的な結合すら、霧散し始めている。

作中で嵐水が語っている『異世界への転生』については、次の作品『転生したら8ビット世界だった件』のお話となります。

『おさバグ』終了後に連載開始しますので、『転ぱち』もよろしくお願いしますね。

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