第四話:その境界は、不条理に溶ける(その3)
陽菜の額に、これまでにないほど禍々しい、紫色の不気味な血管がうねるように浮かび上がる。
だが、先週までのように事務所の工具が磁力で激しく震えることも、局地的な雨が降ることもなかった。代わりに起きたのは、もっと静かで、圧倒的で、抗いようのない世界の粘性消失だった。
ジジジ……ジジジジ……と、俺の背後にある古いオシロスコープが突如として異音を立てた。
画面に表示されていた、流体力学の美しい規則的なサイン波が、前触れもなくデジタルノイズの砂嵐へと変貌する。
「おい、陽菜、動くな……!」
俺は息を呑み、声を張り上げた。
陽菜の左手の指先が、怯えのあまり無意識に空間に触れた瞬間、そこにあった萬屋の頑丈な鉄製の作業台が、まるで古びたコンピューターのテクスチャがペラリと剥がれるように、音もなく『真っ白な空白』へと変色したのだ。
触れた部分の質量も、強固な分子構造も、すべてがこの世界から文字通り消去されている。
「……なるほどな。先週までのは、お前の感情の起伏が引き起こした、局所的なプログラムのエラーだった。だが今回はエラーなんかじゃない。システムそのものの強制終了だ」
俺は、冷や汗が背中をダラリと伝うのを不快に感じながら、頭の中で弾き出した数理的な推論を、自分に言い聞かせるように言葉にして吐き出した。
「お前は『完璧な日向陽菜』でありたいと強く願うあまり、周囲からの認識や評価を過剰に求めていた。そしてお前にとって、最も強烈に自分を『日向』として強く意識させ、不本意ながらも闘争心を煽っていた負の錨こそが、あの石崎部長という存在だったんだ」
「⋯⋯」
「お前を理不尽に縛り付けていた絶対的な観測者が突然この世界から消滅したことで、お前の存在確率を維持していた数式のバランスが完全に崩壊した。お前の中にある『誰も私を正しく認めないなら、最初から存在しない方がいい』という究極の絶望が、お前自身をシステムから消去し、さらにお前を起点として、周囲の世界の境界線までドミノ倒しに溶かしているんだ」
「消えたくない……! 嵐水、私、ちゃんとここにいるよ……! ここで生きてるよ……!」
陽菜が悲痛な声をあげて叫んだ瞬間、バリバリと硬いガラスが割れるような乾いた破壊音が事務所の狭い空間に響き渡った。
思わず見上げると、萬屋の事務所の天井を支えていたコンクリートが、まるでペラペラの薄い紙のように剥がれ落ちていくところだった。剥がれ落ちた向こう側には、初夏の青空が広がっているわけでも、屋根裏の骨組みが露出しているわけでもない。
ただ、光すら届かない、何一つとして概念が存在しない『漆黒の虚無』が、ぽっかりと大きな口を開けていた。
世界が、日向陽菜という存在の消滅に引きずられ、彼女の足元を中心にして急速にナビエ・ストークス方程式の通用しない崩壊を始めている。
俺は急いで、親父が遺したガラクタの山へと足を向けた。
何か、この世界の崩壊を物理的に食い止めるための流体制御装置や、磁気シールドの応用がきくジャンクパーツはないか。
だが、焦りとともに棚に手を伸ばした瞬間、その棚自体がサラサラとデジタルな砂になって床へ崩れ落ちた。
萬屋の歴史も、親父の遺したガラクタも、俺が信じてきた流体力学の法則も
――人間が何世代もかけて積み上げてきた科学や、力技でねじ伏せる次元を、この不条理は完全に超越していた。
一歩外へ出れば、これ以上ないほどの五月晴れの、美しい金曜日が広がっているはずだった。
だが、お前がそこに絶望して佇んでいるだけで、見慣れた街の輪郭が、世界のシステムごと静かに消えていく。
俺は全身を支配する恐怖と重い溜め息を必死に噛み殺しながら、外の世界から差し込む光を完全に遮断するように、錆びついたシャッターの鍵をガタガタと音を立てて固く閉めた。
日常へ戻るためのあの重く分厚い鉄のシャッターを、俺たちはもう二度と上げられないかもしれないという、致命的な予感が不吉に脳裏をよぎり、胸を焦がしていた。
陽菜がこの世界から消えるのではない。世界の方が、日向陽菜のいない形へと、音もなく静かに書き換わり始めていた。
俺たちは、萬屋の床が四角く切り取られ、虚無へと吸い込まれていく中で、ただ互いの体温だけを頼りに身を寄せ合った。




