第四話:その境界は、不条理に溶ける(その4)
世界が壊れる時は、大きな音を立てない。
夕方の萬屋には、吹き抜ける風の音も、遠くから聞こえるはずの街のざわめきも、すぐ目の前にいる陽菜のせわしない息遣いすらも完全に消えていた。
その耳が痛くなるほどの絶対的な静けさだけが、逆に、抗いようのない世界の終わりを告げていた。
夕方、萬屋の事務所は、この世のものとは思えない奇妙な静寂と、生物の気配を拒絶するような冷たい『無』に完全に支配されていた。
崩壊の進行速度は、俺の数理的な想定を遥かに超えていた。
長年使い込んできた作業台の右半分は、すでに輪郭ごと、概念ごと消滅して虚無の暗黒に消え去り、足元のコンクリート床も端のほうから順番にモザイク状にパチパチと弾け、底なしの暗黒へと滑り落ちていく。
世界の座標そのものがバラバラに解体されていく中で、物質の連続性は失われ、残された空間の密度が急速に希薄化していくのが肌に伝わる。
物理的な境界条件がすべて撤廃されていく恐怖。俺と陽菜は、かろうじて部屋の隅に残された、わずか一畳ほどの正方形の床の上に、お互いの身体を限界まで寄せ合うようにして、ただ肩を寄せ合って立っているのが精一杯だった。
「ダメだ……。どんな制御ロジックも受け付けない。俺が信じてきたナビエ・ストークスの方程式も、熱力学の法則も、親父が遺したすべての独自コードも……この世界そのものが下したデリート命令の前には、ただの無意味な文字列の羅列だ」
俺は、キーボードごとボロボロとデジタルな砂になって崩れて消えていく、愛用のデスクトップパソコンを、ただ絶望とともに見つめることしかできなかった。
流体素子の結合が分子レベルでバラバラになり、空中に散逸していく。
ツナギのポケットに突っ込んでいたマイナスドライバーは、いつの間にか手の中で冷たい鉄の感覚を失い、質量を持たないただの光の粒子となって指の隙間から霧散していた。
道具という『概念』すら、世界のシステムから定義を抹消されている。
「ごめんね、嵐水。私のせいで、萬屋も、嵐水の未来も、全部……世界ごと巻き込んじゃって……」
陽菜の声が、不自然に低く、掠れた電子ノイズのように響いて聞こえる。空気という媒介を失いかけ、音が正しく伝播していない。
見ると、陽菜の身体はすでに爪先から太もも、そして腰のあたりにかけて完全に透き通り、背後にある煤けた事務所の壁がくっきりと透けて見えていた。
かけている黒いサングラスの奥から流れた大粒の涙すら、彼女の頬を伝い落ちる前に、重力制御を失って空間へと溶けて消えていく。彼女という存在の『質量』も『情報』も、この宇宙から完全に抹消されようとしていた。
完璧でありたいと願い、誰よりも強くこの世界に自分を刻もうともがいていた幼馴染が、自分を忘れていく世界を道連れにして虚無へ還っていく。
俺の脳は、この圧倒的な破滅のバグを前にして、人生で初めて計算不能の完全なフリーズ状態に陥っていた。
数式も、工具も、萬屋のソリューションも、もうどこにも残されていない。打てる手は、すべて塵となった。
ふと窓の外に目をやると、地元の見慣れたはずの街並みは、遠くのビルや電柱から順番に、パズルのピースを乱暴にくり抜くようにして真っ白な空白へと書き換えられていた。
太陽の光すら歪み、夕焼けの鮮やかな赤さは、生気を失った不気味な灰色へと変色している。光子の波長が引き伸ばされ、エネルギーの伝播が凍りついているのだ。
地球の引力も、大気の流れも、人間が生きるためのあらゆるインフラシステムが、その機能を完全に停止しようとしていた。
俺たちはただ、静かに押し寄せるお互いの存在の消失を待つしかなかった。店のシャッターを上げることも、下ろすことも、俺たちにはもう二度とできない。完全な世界の終わりだった。
その時だった。
しんと静まり返った、物理法則の溶けかけた世界に、場違いなほど鋭く、けたたましい電子音が突如として鳴り響いた。
リリリリリン、リリリリリン。
音の伝播すら止まりかけたこの世界において、その音だけが、まるで時空の壁を強引に突き破って浸入してきたかのように、鼓膜を激しく震わせた。
俺の着ているツナギの、まだかろうじて形を保っている右ポケットの奥深くからだった。
俺はハッとして息を止め、震える手をポケットに突っ込んでスマートフォンを取り出した。
画面の液晶は激しいバグで明滅し、走査線のノイズで狂いそうになっていたが、そこに表示された『発信元』の文字列だけは、この崩壊する世界の中で不自然なほどハッキリと、絶対的な初期値のように描写されていた。
【 +1 ――― 】
日本の国番号ではない。アメリカ――見慣れぬ、しかし、俺の記憶の底に、消えない呪いのように強く刻まれている、海外からの長い桁数の電話番号。
「嵐水、それ……」
陽菜が、今や半分透明になった手を懸命に伸ばし、俺の画面を覗き込んできた。その瞳には、消えかけながらも、消滅に抗うような一筋の希望の光が宿っていた。
俺はごくりと乾いた唾を飲み込み、消滅寸前の画面を強くスワイプして、通話ボタンを押した。
耳元に当てたスピーカーから、世界の崩壊がもたらす静寂を、力任せに切り裂くような凄まじい風の唸りがゴオオオオと爆音で響いてきた。まるで、すべてを吹き飛ばす巨大なハリケーンの目の中にでもいるかのような、圧倒的な風圧の音。
システムがすべてをデリートしようとする負の圧力に対し、それを力技で押し返すほどの圧倒的な流体エネルギーの奔流。
そして、その烈風の雑音をかき分けて、驚くほど軽やかで、破天荒で、かつて俺の人生の初期値を木っ端微塵に狂わせた『あの女』の、懐かしい声が響いた。
『――もしもし? 嵐水? 聞こえる? 今さ、アリゾナの超巨大な移動性低気圧の真ん中にいるんだけどさ。なんかそっち、気圧配置がめちゃくちゃに変なことになってない? データの流れが全部、こっちの風に吸い込まれてきちゃってるんだけど!』
世界の終わりを告げる金曜日の夕暮れ。
ノイズの向こうから響くオフクロ――風見亜希子のあまりに自由すぎる声が、風の向こうから届いた瞬間、俺はようやく悟りかけていた。
陽菜の張り詰めた想いは、ずっと前から俺の境界層に触れていたのに。俺だけが、その微細な圧力変化を、理屈をつけて無視し続けていたことに。




