第五話:その崩壊は、始まりを告げる(その1)
『――もしもし? 嵐水? 聞こえる? 今、アリゾナの超巨大な移動性低気圧の真ん中にいるんだけどさ。なんかそっち、気圧配置がめちゃくちゃに変なことになってない?』
ゴオオオ、とスマートフォンの向こうから響く凄まじい風の唸り。それは単なる大気の移動音ではない。
この崩壊する世界を力任せに抉り開け、真空状態の虚無に外宇宙の莫大な流体エネルギーをダイレクトに注入してくるような、圧倒的な質量を持った音。
世界の境界線が溶け、足元から漆黒の虚無へと消え去ろうとしている金曜日の夕暮れ。
すべての物理法則が機能を停止しつつあるこの極限状態において、偏西風を追いかけてカリフォルニアの彼方へ消えたオフクロ――風見亜希子の声は、不条理なほどいつも通り、呆れるほどに快活だった。
「オフクロ……! 暢気に風の心配をしてる場合か! 今、陽菜の周囲から世界がデータごと消滅して、俺たちのいる萬屋も街も、全部消えかかってるんだ!」
俺は、もはや光の透過率が90%を超え、いつ霧のように霧散してもおかしくない陽菜の身体を左手で強く抱き寄せた。
腕の中にあるはずの彼女の質量は、すでに羽毛よりも軽くなっている。焦燥感に心臓を素手で掴まれるような心地のまま、俺は右手でスマホを耳に押し付けた。
これまでに起きた、およそ科学では説明のつかない不条理の数々――彼女の頭上に局所的に発生した雨雲、左手に宿った異常な磁力、右足が引き起こした空間的な反発力。
そして、彼女の精神を繋ぎ止めていた絶対的な錨であった石崎部長が、駅の地下通路で刺殺されたこと。それにより、観測者を失った陽菜の存在確率が完全に崩壊し、世界を巻き込んでシステムが強制終了しようとしていること。
そのすべての概要を、俺は博士課程のプレゼン以上の熱量と速度で、一気に捲し立てた。
受話器の向こうのオフクロは、暴風の雑音に混じりながら、ひとしきり俺の話を黙って聞いた後、フッと緊張感の欠片もない気の抜けた笑い声を漏らした。
『なーんだ、そんなこと。嵐水、あんた大学院で難しい流体力学の方程式ばっかり解いてるから、そんな単純な初期エラーも見落とすのよ。あの人の残したスパゲティ・プログラムのせいじゃないわ。それ、二人の「最初のバグ」が原因よ』
「最初のバグ……?」
『覚えてない? 陽菜ちゃんがまだ5歳の頃、その萬屋の裏口で、あんたにワンワン泣きながら言ったじゃない。「大きくなったら、嵐水のお嫁さんにして!」って。あんたは旋盤の鉄クズをいじりながら「いいよ」って生返事したの。覚えてるでしょ?』
ドクン、と心臓が破裂しそうなほど大きく跳ねた。
脳裏の引き出しの最奥、何重もの論理の防壁の向こうに封印されていたセピア色の記憶が、強烈な負の圧力によって鮮烈に引っ張り出される。
油と鉄粉の匂いが立ち込める萬屋の裏口。鼻頭を真っ赤にして泣きじゃくる、小さな小さな陽菜。
『陽菜ちゃんはね、完璧なキャリアウーマンになりたかったわけじゃないのよ。部長に名前を間違えられて怒ってたのも、プライドのせいじゃない。あんたも本当は分かってるんじゃないの? 彼女が毎週、世界の物理法則を捻じ曲げてまであんたの前に現れて、大騒ぎして伝えたかった本音。……彼女はね、「日向陽菜」じゃなくて、「風見陽菜」になりたいのよ』
「っ……!」
胸を、鈍器で突かれたように息が止まった。
その瞬間、俺の腕の中で完全に形を失いかけていた陽菜の身体が、ドクドクと確かな脈動を打ち始めた。散逸しかけていた身体が、明確な一点へと急速に収束していく。
みるみるうちに彼女の肌に血色が戻り、骨が、肉が、人間としての確かな質量と密度を取り戻していく。
パサリ、と彼女の顔から黒いサングラスが床に落ちた。露わになった彼女の大きな瞳が、涙を湛えたまま、驚いたようにじっと俺を見つめている。
世界を崩壊させていた究極の絶望――「誰にも正しく認められないなら、最初から存在しない方がいい」の正体は、石崎部長への怒りなどではなかった。
ただ真っ直ぐに、俺に自分を「風見」として認識してほしかったという、世界で一番傲慢で、世界で一番切ない、小さな恋心の裏返しだったのだ。
他人にどれだけ評価されようと、肝心の俺が彼女を「境界線の外側」に置き去りにしている限り、彼女の存在は定義されなかったのだ。
俺は携帯をポケットに突っ込み、まだ子鹿のように震えている陽菜の両肩をガシッと力強く掴んだ。
「陽菜、お前が引き起こした今までのバグの答え合わせが、やっと全部繋がった。お前の右足の反発力も、左手の磁力も……全部、俺を自分の方に引き付けたくて、でも拒絶されるのが怖くて、お前の中で矛盾して暴走してただけなんだな。流体の制御が利かなくなるほど、お前は……」
「え……? 嵐水、何を言って……」
「日向陽菜」
俺は彼女の目を、その網膜の奥を覗き込むようにして、世界で一番明確に、その名前を強く観測するように告げた。
「お前をマスコット扱いする世界なんて、俺が数式ごと全部書き換えてやる。だからもう、他人の評価なんて不安定なものに縋るな。……お前の最初のバグ、俺が今ここで、正式な『仕様』としてアップデートしてやるよ」
俺は一呼吸置き、ずっと閉ざしていた心のシャッターを、赤錆びた鉄の固着を力任せに引き剥がすように、全力で跳ね上げて叫んだ。




