第五話:その崩壊は、始まりを告げる(その2)
「俺と結婚しろ。日向陽菜を終わらせて、俺の、風見萬屋店の『風見陽菜』になれ! そうすればお前の存在確率は、俺が一生、どんな不条理が来ても絶対にブレさせない!」
陽菜の瞳が、これまでにないほど大きく見開かれた。
その瞬間、パチパチと空間を切り裂いていたデジタルノイズが悲鳴のような音を立てて反転した。
消滅していた頑丈な作業台や、抉り取られていた床のコンクリートが、巻き戻されるビデオテープのように超高速でその分子構造を再構築していく。
天井を覆っていた漆黒の虚無は一瞬で塞がり、窓の外には、いつもの穏やかで美しい、初夏の金曜日の夕焼けが、何事もなかったかのように優しく広がっていった。
世界は、救われたのだ。俺の、人生初となる、全力のプロポーズという名のデバッグプログラムによって。
「……あれ? 嵐水? 私、なんであんたにこんなに強く肩を掴まれてるの?」
しかし、腕の中の陽菜は、いつもの勝ち気な、しかしどこか少し照れくさそうな顔で俺を見上げていた。
その瞳には、さっきまでの世界の終わりを恐れていた悲痛な記憶が一切残っていないように見える。
世界が元通りに修復された際の強烈なフィードバックで、彼女の記憶から「世界の崩壊」と、それに伴う「嵐水のプロポーズ」の顛末は、因果律の辻褄合わせによって綺麗に無かったことになってしまったらしい。
呆然とする俺の背後で、萬屋の奥の居住スペースから、ドタドタと不機嫌そうで頑固な足音が近づいてきた。
「おいおい嵐水、夕飯の買い出しは行ってくれたか? そういえば母さんからまたアリゾナの砂漠の絵葉書が届いてたぞ。相変わらず竜巻を追いかけてるらしい」
ガラッと襖を開けて現れたのは、油の染みたツナギを着た親父――風見嵐山だった。
『親父の急死による萬屋の継承』という、俺の過去に刻まれていたはずの悲しい初期値すらも、不条理の修正プログラムによって、『親父の介護のための休学』という、どこまでも優しい世界へと書き換えられていた。
「明日から萬屋の仕事は俺が本格的に復帰する。お前はさっさと大学院の研究室に戻れ。あ、それと陽菜ちゃん、例の『萬屋のオーバーテクノロジーを使った産学共同研究の件』、お前の会社の上層部と正式に話がついたぞ。明日から嵐水と、大学で思いっきり新規事業の開発をやってくれや」
「はい! おじさん、ありがとうございます! 任せてください!」
親父の言葉に、陽菜が快活に、そして満面の笑みで応える。
世界が修復された際、陽菜の置かれた立場もまた劇的に変わっていた。
彼女は単なる丸の内の、他人の顔色を窺う会社員ではない。萬屋の持つ驚異的な独自技術にいち早く目をつけ、俺の大学院の研究室と民間企業を繋ぐ『産学連携プロジェクトのチーフマネージャー』という、彼女の持つ高い専門性と調整能力を120%活かせる、名実ともに最強のキャリアウーマンへと立場を変えていたのだ。
――それから、1年の月日が流れた。
親父の体調は完全に回復し、俺は無事に大学院の博士課程へと復学を果たしていた。俺の所属する流体工学研究室は今、陽菜の会社との『共同研究室』を兼ねている。
ナビエ・ストークス方程式の複雑な数理モデルと、陽菜が現場から持ち込んでくる極めて実務的なビッグデータを組み合わせ、日々新しい流体制御システムを開発する。
本来あるべきだった――いや、あの不条理を経て、それ以上に充実した平穏で騒がしい日々。
あの油臭い萬屋の狭い事務所も、重い赤錆びた鉄のシャッターも、今の俺の目の前にはない。白いデスクと、最新のワークステーションが並ぶ、清潔な研究室だ。
6月。嫌に天気が良い、抜けるような青空が広がる月曜日の朝。
近所の農家から差し入れられた、糖度13度の瑞々しいミカンをデスクで頬張っていると、静まり返った研究室の重い防音ドアが、前触れもなく盛大に蹴り開けられた。
「嵐水ぃーーー!! 助けて! 冗談抜きで、今度は本当に、今日の午後からの『合同学会の共同発表』がめちゃくちゃになるかもしれないのよ!!」
仕立ての良い、洗練されたライトグレーのパンツスーツを完璧に着こなした陽菜が、鋭いヒール音をリズミカルに鳴らして飛び込んできた。
チーフマネージャーとしての凛とした威厳と美しさは完璧なのだが、現在の彼女の頭上には、室内であるはずなのに局所的な『ミニチュアの積乱雲』がどんよりと浮かび、ゴロゴロと不穏な雷鳴を轟かせている。
さらに、彼女が焦って歩くたびに、研究室のスチール製のデスクからクリップやハサミ、果ては精密ピンセットまでもがガタガタと音を立てて浮き上がり、彼女の左手へと磁石のように吸い付いていく。
どうやら、人生を賭けた大舞台である学会発表前の強烈なプレッシャーが、また彼女の可愛い『心のバグ』を呼び覚ましてしまったらしい。
「……また月曜日か。しかも、今回は雨雲と磁力の同時多発だな」
俺は画面に表示された複雑な流体シミュレーションから視線を外し、盛大なため息をわざとらしく吐き出しながら、デスクの抽斗から一本のマイナスドライバーを取り出した。
ここにはもう、あの古びた店のシャッターはない。だが、この不条理で、最高に愛おしい――そして、いつか必ず「風見」という姓に上書きする予定の幼馴染を、力技でデバッグするためのソリューションなら、俺の頭の中にいくらでもある。
「いいだろう、陽菜。学会の前に、まずは萬屋の技術と俺の流体力学で、その磁力と雨雲を完璧にねじ伏せてやる。そこに座れ」
俺はフッと口元を緩め、最高に騒がしい一週間の始まりを告げる、未来のパートナーの元へとゆっくり歩き出した。
(完)




