第零話:その蜜柑は、嘘にまみれる
ハウスのビニール越しに、初夏の光が揺れていた。糖度13度のミカンが並ぶ選果台の前で、陽菜はふと手を止める。
——世界の膜が、薄く震えている。
そう思った瞬間、指先に触れた果実の表面が、ほんのわずかに剥がれたように見えた。風もないのに、ハウス全体が呼吸するように膨らんで、しぼむ。
「……また、だ」
誰にも説明できない。けれど陽菜にはわかる。世界の境界層が、今日も静かに軋んでいる。
そしてこの『軋み』が、やがてあの狂った月曜日の幕開けとなる、すべての始まりだった。
事の起こりは、その一週間前の初夏。地元の『みかんの合同選果会』の日に遡る。
当時の陽菜は、丸の内の商社で完璧なオフィスワーカーを演じることに全神経をすり減らし、週末になると逃げ込むように実家で心を休めていた。
その日は、実家の手伝いで近所の大型スーパー『アグリー・マルシェー』の特設特売コーナーに駆り出されていた。
「奥さん安いよ! 初夏のハウスみかん、高糖度13度保証! 今年一番の甘さだよ!」
威勢のいい店長の大きな声が響く。ポップにはこれでもかとデカデカと『糖度13度! 奇跡の甘さ!』の文字。
その時、売り場の応援を頼まれた陽菜が、何気なくコンテナから溢れそうになっていたミカンの一つに触れた。
その瞬間だった。ピキィン、と脳裏でガラスが割れるような電子音が響いた。
「え……?」
視界がぐにゃりと歪み、陽菜の網膜に、まるで壊れた液晶ディスプレイのような禍々しいフォントで、鮮烈なデジタル文字が強制描写された。
【エラー:対象の固体糖度は 10.2度 です。記載情報「13度」は完全な虚偽、または過大広告。嘘をつくな】
「うわっ! なに、これ……!?」
陽菜は思わずミカンを放り出した。しかし、別のミカンに触れても同じだった。
『糖度9.8度:水分過多』
『糖度10.5度:酸味が勝る』
触れる果実、触れる果実の正確な糖度が、脳内にダイレクトにロードされていく。
過剰な光を放つそのデジタル文字のせいで、陽菜の視界はチカチカと激しく明滅し、脳が強烈な光過敏を起こし始めた。
「嘘……全部、ポップの数字と違う……!」
嘘にまみれた空間への嫌悪感と、脳を突き刺すようなバグの痛みに耐えかね、陽菜は頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。
周囲の客がざわつき、店長が慌てて駆け寄る。
「ちょっと日向さん、大丈夫? 熱でもあるの?」
「店長……嘘、です……」
「は?」
「このみかん、13度なんてありません! 10度ちょっとです! お客さんを騙して、嘘をついて売るなんて、そんなの、そんなの絶対に間違ってます……!」
涙目で叫んだ陽菜の言葉は、静まり返った売り場に響き渡った。当然、周囲にいた買い物客は大騒ぎになり、店長は顔を真っ青にしてポップを撤去する羽目になった。
「……っていうのが、先週の『ミカンの糖度事件』の全貌だ」
五月の頭、月曜日の朝。『風見萬屋店』の薄暗い事務所で、俺――風見嵐水は、いまだに光過敏の後遺症で真っ黒なサングラスをかけたままの陽菜を見据えて言った。
「あの後、お前がパニックになって俺のところに泣きついてきたから、俺が『アグリー・マルシェー』の店長に掛け合って、農協の正式な糖度計で測り直させたろ。結果は、お前の脳内ディスプレイが弾き出した通り、平均糖度10.2度。店長が客引きのために嘘のポップを作ったことを認めさせて、正しい表記に修正させたら、お前の『ミカン識別バグ』は綺麗に消えた」
「そうだったわね……あの時は、嵐水が理系の理屈で店長を論破してくれて助かったけど……」
陽菜はサングラスの奥で、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「助かった、じゃないんだよ。あの騒動のせいで、地元の頑固な農家たちの間で『風見の倅はみかんの糖度にやたらと目利きが利く』って意味不明な噂が広まっちまった。結果、あそこの頑固親父が『出荷用の糖度計のセンサーがおかしいんじゃねえか、風見の萬屋で直してくれ』って、このオシロスコープだらけの事務所に糖度計を持ち込んできたんだ」
俺は作業台の上にバラバラに分解された、農協仕様の近赤外線糖度計の基板を指差した。
「他人の嘘が空間を歪め、お前の五感を狂わせた。それが先週のバグのトリガーだ。そして今週は、お前自身が抱え込んだ『自分への嘘』が、その頭上の雨雲を呼び寄せたってわけだ」
ザーザーと、事務所の床を濡らし続ける局地的な大雨。陽菜は頭上の黒い雲を見上げ、それから、自分の小さな嘘が引き起こした一連の騒動の大きさに、もう一度深くため息をついたのだった。
――世にも不条理で、どこまでも愛おしい物語は、こうして静かに幕を開けた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
本作は、私にとって初めて書き上げた小説になります。拙い部分も多かったと思いますが、最後までお付き合いいただけたこと、とても嬉しく思っています。
作中にはそれらしい理系用語や、流体力学の厳密な雰囲気がたくさん出てきますが、実は私は大学を卒業してからまったく関係のない分野で働いておりました。
そのため、学生時代に学んだ物理のことなどはすっかり忘れてしまっており、執筆にあたってはまさにゼロからのスタートとなりました。
昔の友人に「この数式はどういう意味?」「この現象をSFっぽく表現するにはどうしたらいい?」とあれこれ知恵を借り、時には教科書を引っ張り出しながら、周囲の助けを借りてなんとかこの『それっぽさ』を形にしていきました。
専門的な知識を持つ方から見れば、描写に拙い部分や至らない点も多々あるかもしれませんが、周囲の温かい協力のもとで泥臭く組み上げた、私なりの精一杯のデバッグの成果として受け止めていただけますと幸いです。
この場を借りて、根気強く助けてくれた友人たちに心からの感謝を伝えたいです。
本作の主人公である風見嵐水には、明確なモデルがいます。それは、私が学生時代に大変お世話になった、ある大学院生の先輩です。
いつも飄々としていて、どんなに複雑な問題も卓越した論理思考で鮮やかに解き明かしてしまう彼の背中が、嵐水というキャラクターの『技術と理屈で不条理をねじ伏せる格好良さ』のベースになりました。
タイトルについても、少しだけ裏話があります。
もともとは『日向陽菜が世界の境界層を剥がすとき』という、もう少し尖ったものを考えていました。
ただ、友人から「WEB小説サイトで読まれるには、もう少し間口を広くした方がいい」とアドバイスを受け、軽く言い合いのようになったこともあります。
ですが、最終的に今の形に落ち着いてみると、作品の雰囲気にも合っていて、結果的にはとても良かったと感じています。
あのとき背中を押してくれたことに、今は感謝しています。
また、本作のテーマのひとつでもある『名前』についてですが、これは私自身の実体験が少しだけ元になっています。
いわゆる『少し変わった名前』で育ったこともあり、名前というものに対して、どこか特別な感覚がありました。
だからこそ、物語の中でも『どう呼ばれるか』『どう在りたいか』という部分を大事に描いたつもりです。
……そして今、実際に子どもができてみると、やっぱり一度で読める名前って大事だな、としみじみ感じています。
そして、第零話について。
本当は、あの話を書く予定はありませんでした。最終話を書き終えたとき、物語が終わってしまうことが、思っていたよりずっと寂しくて。
気づけば、ほとんど自動書記のように、あのエピソードを書き上げていました。少し肩の力が抜けた、けれどこの物語らしい一編になっていれば嬉しいです。
不条理で、少し騒がしくて、それでもどこか優しい世界の話でした。
ここで、この月曜日はいったん終わります。
けれど、どこかでまた、あの世界の『軋み』が聞こえたなら――そのときは、もう少しだけ続きがあるのかもしれません。
この物語が、どこかであなたの心に残ってくれたなら、とても嬉しいです。
改めて、ここまで読んでくださってありがとうございました。
結島真季




