第二話:その引力は、すれ違いを拒絶する(その2)
事務所の空気がまるで泥のように重い。陽菜の左腕から放たれる目に見えない重力が、作業台の上の金属パーツを次々と宙へ浮かび上がらせ、彼女の腕を中心に禍々しい渦を作っている。
「なるほどな。先週の雨雲が、お前が自分に嘘をついて『悲しみを抑え込んでいた歪み』だとしたら、今週のこの異常磁力は……お前の強い『引き付けたい』という執着、あるいは『自分の存在を無視されたくない』という、他者に対する強烈なアピール衝動の裏返しだ」
「勝手に私の深層心理を人間ドックしないでよ!」
「お前は完璧でありたいオフィスワーカーだからな。自分の仕事や、正しい名前を周囲に正しく認識させたいという強いストレスが、左手に万有引力を発生させている。お前の心の中の『黒歴史のブラックホール』が、周囲の物質を引き寄せている状態だ」
「余計な例えで私を宇宙の天体みたいにしないで! ……って、そこまで言うなら、この厄介な引き寄せ癖をどうにかする解決策はあるわけよね?」
「当たり前だ。物理現象として起きている以上、等価なベクトルで相殺するか、あるいは原因となっている『過剰な執着』を物理的に逃がす回路を作ればいい。毎週毎週、お前の心のバグに付き合わされるこっちの身にもなってほしいがな」
「文句言わないでよ、私が一番困ってるんだから!」
陽菜は、目を保護するためにまだ外せない大きめの黒いサングラスの奥で涙を潤ませ、悔しそうに唇を噛んだ。網膜の過敏症が治りきっていないその姿が、余計に痛々しさを強調している。
その姿を見て、俺はまた自分の前髪を乱暴にかきむしった。
大学院の博士課程を休学し、この古びた萬屋のツナギを着て半年の月日が流れた。ナビエ・ストークス方程式を解いていた日々が、遥か遠い前世のことのように思える。
親父の遺した、マニュアルもコメントアウトもないスパゲティ・プログラムの解読だけでも脳のキャパシティは限界だというのに、月曜日が来るたびに、この幼馴染は世界の物理定数を書き換えて俺の前に現れる。
さらに言えば、この男所帯の事務所には、相変わらず『女っ気』の欠片もない。
偏西風の蛇行を追いかけてカリフォルニアへ消えた俺のオフクロ――風見亜希子は、今朝もどこかの国から絵葉書の一枚すらよこさない。
親父が死んだことも、息子が大学院を休学して油まみれになっていることも、彼女は地球の裏側で風に吹かれながら何も知らないのだろう。
家族という『引き合う力』が最初から壊れているこの家で、俺だけが、親父の遺した地域インフラの鎖に縛り付けられている。
「嵐水……どうにかして。今日、日付が変わるまでに先週の会議の修正資料を提出しなきゃいけないの。これ以上遅れたら、本当に私の評価が『ただの使えないマスコット』になっちゃう……」
陽菜の声が、小さく震えていた。その目は、どんなに不条理な現象に巻き込まれても、決して自分の仕事を諦めたくないという、強い意志に満ちていた。
俺はフッと鼻で笑い、作業台の上のマイナスドライバーをツナギのポケットに突っ込んだ。
「いいだろう。本音を喋って消えないなら、萬屋のソリューションで力技でねじ伏せてやる。陽菜、そこに座ってろ」
俺は事務所の奥にある、親父が遺した正体不明のジャンクパーツの山へと向かって歩き出した。
外は、これ以上ないほどの五月晴れ。絶好の営業日和だ。
だが、お前がその左手をぶら下げて一歩でも外に出れば、街中の看板や自販機を引き剥がす大惨事になりかねない。
俺は重い溜め息をつき、シャッターの鍵を固く閉めた。どうやら今週の月曜日も、そう簡単には店のシャッターを上げられそうにない。
俺はジャンクパーツの山から、親父が遺した旧式のネオジウム磁石と、廃車から剥がした高密度の銅線を引きずり出した。
――この狂った磁場を、物理的に『力技』で相殺するしかない。俺の萬屋としての意地にかけて。




