第二話:その引力は、すれ違いを拒絶する(その1)
金属が震えた。棚が唸った。
そして幼馴染の左手が、世界の磁場をねじ曲げていた。
「……陽菜。お前、今度は何を引き寄せた?」
俺の月曜日は、またしても始まってしまった。
五月も中旬に差し掛かった、これまた嫌に天気が良い月曜日の朝。
俺――風見嵐水は、実家の『風見萬屋店』の事務所で、一週間ぶり二度目となる盛大なため息を吐き出していた。
目の前の作業台の上には、近所の常連から「ホイールのサイズを大きくしたら、中心の噛み合わせがガタつく」と頼まれて預かった、金属製のホイールリングが転がっている。
昨日から徹夜で旋盤を回し、ミリ単位のズレを削り出す微調整を終えたのが、ちょうど一時間前。
回転する金属のブレを抑える力学について脳内でシミュレーションし、ようやく一眠りできると思った矢先に、裏口の勝手口を「開けてー!」と激しく叩く音が響いた。
嫌な予感を抱えながら鍵を開けた俺を待っていたのは、またしても、世界の物理法則を根底からあざ笑うような幼馴染の姿だった。
「嵐水ぃ……! 冗談抜きで、今度は本当に警察に捕まるかもしれないの……! ミカンの糖度どころの騒ぎじゃないわよ!」
パイプ椅子にしがみつくようにして座っている日向陽菜は、完全に半べそをかいていた。
オフィスに出勤するための仕立ての良いライトグレーのパンツスーツを着込んでいるが、現在の彼女の状態は、前回の『頭上の雨雲』よりも視覚的には地味で、しかし物理的なタチの悪さとしては数倍上を行っていた。
問題は、彼女の『左手』だ。
陽菜が恐怖に顔を歪めながら、その細い左手をそっと作業台の方へ向けた、その瞬間だった。
ガタガタガタッ! と、事務所の工具棚が激しく振動を始めた。
「あ、危ない!」と陽菜が慌てて左手を自分の胸元に引っ込めると、振動はピタリと収まる。
「……磁力、か?」
「そうなのよ! 今朝、目が覚めてベッドから起き上がろうとしたら、目覚まし時計が手の甲にバチンって吸い付いてきて! びっくりして手を振ったら、今度はドレッサーのヘアピンが全部、私の左手に目がけて飛んできたの! 今も、ほら!」
陽菜が恐る恐る左手のひらを開くと、そこには彼女が普段オフィスで使っている、金属製の高級シャープペンシルやクリップが、まるで生き物のように手のひらにびっしりと吸い付いていた。
それだけではない。彼女が少しでも手を大きく動かすと、事務所の床に落ちている小さなネジや、俺がさっきまで使っていたスパナまでもが、彼女の左手に向かってジリジリと引きずられるように動くのだ。
「生体磁石人間。昭和の超能力特番か、あるいは某アメコミのヴィランだな。物理的に言えば、人間の血液の鉄分が異常励磁して――」
「血の鉄分とか急に生々しいこと言わないでよ!」
「だが、アルミのクリップまで吸い付いてる。電磁気学の法則を超えてるぞ。これはお前の『意志』に同期した、精神等価引力場だな」
「理屈はいいから、なんとかしてよ! これじゃ丸の内線に乗れないわよ! 改札を通ろうとした瞬間、自動改札機の金属パーツを全部分解して引きはがしちゃうかもしれないし、オフィスでパソコン触った瞬間にハードディスクのデータを一瞬で全消去しちゃうわよ!」
「確かに、今のIT社会において強力な磁気は歩く大量破壊兵器だ。お前がオフィスビルに入った瞬間、サーバー室の磁気テープが全滅して数億円規模の損害賠償が発生するぞ。お前が先週、石崎部長に『ひゅうがです! 当方のエースストライカーです!』って強気に言い返したのは偉かったが、まさか今週は物理的に会社を破壊しにいくとは思わなかった」
「私をテロリストみたいに言わないでよ! 先週、嵐水に言われた通りにちゃんと『ひゅうがです』って言い返したわよ! そしたらあの丸刈り、一瞬ハトが豆鉄砲食らったみたいな顔した後にね、『お、日向ちゃん、今日は元気があっていいねぇ。まさに我が営業部のアタック999だ!』って、今度は別のバレーボールアニメのタイトルで返してきたのよ! 昭和か! 生まれてもないわよそんな時代!」
「アタック999……? いや、待てよ。語感からしてバレーボールの隠喩かと思ったが、三桁の数字というスケールを真面目に捉えるなら、別の物理的仮説が成り立つ」
「嫌な予感がするから今すぐその考察を止めて!」
「例えば、常温核融合炉の臨界温度である約999度ケルビン、あるいは大気中の電離層プラズマの密度パラメータ……つまり石崎部長は、お前の発するストレス磁場が、地球の外核が生み出す地磁気の『約999倍』に達していると踏んで、遠回しに警鐘を鳴らしていたんじゃないのか?」
「部長がそんな地球物理学的なスケールで私のストレスを測ってるわけないでしょ! ただのオッサンの適当な思いつきよ!」
「なるほど、トリプルナインの語呂合わせか。だとすれば銀河系を突破する機関車のように、お前の左手の磁気も宇宙へ飛び出す――」
「だから話を勝手に壮大にしないでよ!」
陽菜の額に、ピキリと明らかな青筋が浮かんだ。
その瞬間、ガタァン! と、作業台の上に置いてあった重い鉄製のパーツが、陽菜の左手に向かって数センチ、明確にスライドした。
「おい、怒るな! 磁力が跳ね上がってる! 鉄塊が吸い付いたら、お前の華奢な指の骨なんて一瞬で粉砕骨折するぞ!」
「ひっ……!」
陽菜は慌てて左手を後ろに隠し、自分の右手でそれを固く抑え込んだ。
陽菜の周囲を漂う空間の歪みは、もはや磁石の力で制御できる範疇を超えつつあった。
事務所の壁に飾られた古いカレンダーの角が、まるで強風に煽られたように内側へ向かって引き寄せられ、千切れかけている。
彼女の執着が、空間そのものを『彼女の側に』引きずり込もうとしているのだ。
——このままでは、彼女の左手ごと、この事務所が「彼女の心」の中に飲み込まれてしまう。




