第一話:その雨雲は、嘘に濡れる(その4)
「おい、陽菜! 雨雲の密度が上がってる。このままじゃ事務所の基礎ごと湿気でやられるぞ!」
床板がミシミシと悲鳴を上げ、古い電子部品がバチバチと火花を散らす。もはやこれは、単なる溜息が呼ぶ雨ではない。陽菜の心の奥底に眠る「何か」が、あふれ出そうとしていた。
俺は即座に決断する。
「隠して出社するのが無理なら、アプローチを変える。この雨雲の『原因』を叩く」
俺は歩み寄り、陽菜が頑なに外そうとしないサングラスを、指先で静かに跳ね上げた。
「先週の『みかんの糖度事件』を思い出せ。あの時だって……」
「あれは思い出したくもないわよ⋯」
「お前が近所のスーパーで『糖度13度!』っていう特売ポップに触れた瞬間、脳内に本物の糖度――『実測値9.8度』っていう正確な数値が勝手に強制ロードされて、視神経が過負荷を起こしてパニックになっただろ」
「あれは本当に地獄だったんだからね……。目を開けてるだけで頭が割れそうだったのよ」
「他人の大嘘と、お前の脳が勝手に拾っちまう真実とのギャップが、五感を極限まで狂わせたわけだ。……まぁ、そのせいで農家から糖度計の修理なんて面倒な仕事が舞い込んじまったわけだが」
「人のせいみたいに言わないでよ!」
「で、だ」
俺は陽菜の、少し赤くなった目をまっすぐに見つめた。
「今回は、お前自身が大きな嘘をついてる。石崎の下で、本当はどれだけストレスを溜め込んでるんだ? 隠さずに言え。萬屋の割増料金で相談に乗ってやる」
陽菜は一瞬、言葉を失った。濡れたまつ毛が小刻みに震え、視線が激しく泳ぐ。やがて、張り詰めていた糸が切れたように、彼女は小さく肩の力を抜いた。
「……めちゃくちゃ溜まってるよ。あの部長、私の努力も全然見てくれないんだもん。『ひなたちゃんは可愛いんだから、ニコニコしてればいいよ』って……。私、誰よりも早く出社して、完璧に書類作って、男の人たちに舐められたくなくて、平気な顔して毎日遅くまで残業して……本当は、すごく悔しくて、苦しい」
陽菜の口から、堰を切ったように「本音」が零れ落ちた。いつも完璧で、誰からも頼られる『日向陽菜』という仮面の下に隠されていた、等身大の弱音。彼女が東京の真ん中で、どれだけ孤独に戦っていたのかが、その声の震えだけで痛いほど伝わってきた。
「名前のせいで、子供扱いされたくなかったの……。ちゃんと、一人の人間として、私の仕事を見てほしかったの……!」
彼女がそう言いきった、その瞬間だった。事務所の中に響いていたザーザーという激しい雨音が、ふっと遠のいた。あれほど禍々しく渦巻いていた黒い雨雲の輪郭がみるみるうちに薄くなり、まるで夕霧のように、事務所の天井へと溶けて消えていった。
「……え? 雲が、消えた?」
陽菜が自分の頭上を仰ぎ見る。そこには、ただの煤けた古い天井があるだけだった。
「言っただろ。お前の『嘘』が引き起こした空間の歪みだ。自分に嘘をついて、周囲の期待に合わせて完璧を演じ、ストレスを抑え込もうとするエネルギーが飽和して、物理的な雨を降らせていた。お前が自分の『弱さ』と『怒り』を認めて本音を口にしたことで、空間の平衡状態が戻ったんだ」
陽菜は自分の濡れていない手をじっと見つめ、それから、本当に心からほっとしたような表情で笑った。
「終わってみれば実にあっさりとした解決策だったな。萬屋の高度な技術を使うまでもなかったな」
俺は作業台の上の吸水シートや、結局無駄になった排水チューブをクシャクシャにまとめてゴミ箱に放り込んだ。
「ううん。嵐水が聞いてくれなきゃ、私、あのままオフィスで感電してたよ。……ありがとね、嵐水」
窓の外からは、五月の夕暮れの、穏やかな風が吹き込んできた。
「明日はちゃんと会社に行けよ。それと、今度『ヒナタ』って呼ばれたら、キレ気味に『ひゅうがです! 当方のエースストライカーです!』って言い返してやれ。そのくらいの気概がお前にはあるだろ」
「丸の内のオフィスでそんな猛虎みたいなセリフ吐けるわけないでしょ! ……でも、まぁ、それくらい強気に言い返すのは賛成だけど」
陽菜は今度こそ、いつもの太陽のような笑顔を咲かせて、萬屋の裏口の勝手口から外へと出た。「じゃあね!」と小さく手を振り、歩いて三分ほどの距離にある自分の家へとトコトコと歩いて帰っていくその後ろ姿を、俺はドアの隙間から見送った。
一人残された薄暗い事務所で、俺は自分の前髪をかき上げた。
結局、午前中にやるはずだった農家の糖度計のプログラム調整は夜に持ち越しだ。先週、みかんを触りまくって「これ12度!」とはしゃいでいた陽菜の姿を思い出し、少しだけ口元が緩む。
ふと視線を落とすと、作業台の上には、先ほど彼女の靴底から引き抜いた小型の『超音波圧電マイクロポンプ』が転がっていた。手のひらに収まるほどの、泥と油にまみれた小さな機械。
こんな変態的なパーツを嬉々としてストックし、街の機械を裏で支え続けていた親父の残した複雑なシステムを押し付けられたときは、自分の知識も未来もすべて無駄になったと思っていた。
だが、まさか幼馴染の突飛な『心のバグ』を解析し、この脳みそを使うことになるとは。
通夜が終わった次の日、教授の猛反対を押し切って大学院に休学届を出した。いつでも戻れるように、という教授のせめてもの親心だったが、今の俺にとってはその休学中という肩書きこそが、どっちつかずの重荷のようでもあった。研究室に籍を残したまま、俺は古びたツナギを継いだ。俺の人生の初期値は、あの瞬間に完全に狂ったのだ。
「まぁ、あのオフクロが今もどこかで世界の空気をかき混ぜているせいで、こんなバグが起きてるんじゃないかと、半分くらいは本気で疑ってるけどな」
俺は誰もいない事務所で小さく毒づき、開店準備に取り掛かった。
さて、と。
俺は作業着の袖をまくり上げ、ずっと閉ざされていた入り口へと歩み寄った。
赤錆びた取っ手を掴んで一気に引き上げると、ガラガラとけたたましい音を立てて、夕暮れの心地よい夜風と街の明かりが事務所の中に流れ込んでくる。
バグは片付いた。遅れちまったが、萬屋の本当の仕事はここからだ。
俺はようやく、店の重いシャッターを上へと跳ね上げた。
——だがその夜。
帰宅したはずの陽菜の左手だけが、意志を持つかのように空を切って何かを掴もうとしていた。まるで、誰にも見えない「世界の境界」そのものを。




