第一話:その雨雲は、嘘に濡れる(その3)
夕方、萬屋の事務所には、いつになく奇妙な雨音が響いていた。
俺はため息を飲み込み、目の前の光景を『異常』ではなく『解析対象』として再定義する。感情に振り回されていては、親父が遺したこの場所で、彼らのような『異物』を救うことなどできない。
作業台の上には、陽菜が着てきたブランド物の高級トレンチコートが無残にも裏返しで広げられ、その周囲を無数の工具、極細のシリコンチューブ、謎の電子基板が埋め尽くしていた。
「おい、動くなよ。流体制御の基本は、いかに抵抗を減らして最短ルートで流体を導くかだ。お前がミリ単位で動くだけで、計算した傾斜角度が狂う」
俺はツナギのポケットからマイナスドライバーを取り出し、コートの裏地に手を伸ばしていた。
陽菜のために試作した『雨雲隠蔽コート・プロトタイプ1』の最終調整だ。
事の始まりは数時間前。「会社を休め」と言われた陽菜が、「明日も明後日もこのままだったらどうするのよ! 会議の資料はどうなるの!」と半泣きで訴えてきたことだった。
物理的な消去が今すぐ無理なら、せめて周囲にバレずに丸の内のオフィスへ通勤し、デスクワークをこなせる方法を模索するしかない。そこで俺が目をつけたのが、彼女の上着だった。
「ねえ、本当に大丈夫なの? それ、去年買ったばかりの結構いいやつなんだけど……」
不安げに覗き込んでくる陽菜の頭上からは、相変わらずザーザーと容赦ない雨が降り注ぎ、彼女の肩を濡らしている。だが、その水滴はコートの表面を伝う前に、俺が裏地に仕込んだ『ギミック』へと吸い込まれていた。
「安心しろ。布地自体には一切傷をつけてない。裏地のステッチを利用して、超高吸水性のマイクロファイバーシートを二重に這わせただけだ」
「それなら一安心ね……」
「安心すんな。お前の頭上の雲の降水量は、一分あたり約120ミリ。普通の傘なんて一瞬で貫通するレベルの豪雨だ」
「そんなの歩く水害じゃない!」
「その通り。だから、毛細管現象を利用して水分を瞬時にコートの裾へ集約し、スラックスの縫い目に沿わせた医療用チューブへと流し込む。水流はそのまま靴底へ到達する」
「靴底!? 靴の中が水浸しじゃない!」
「そこは心配するな。靴のインソールの下に、親父の遺品の『超音波圧電マイクロポンプ』を仕込んである」
「ポンプって……そんなの靴に入るの?」
「それが入るんだよ。お前が歩くときの体重移動――一歩踏み出すたびにかかる足裏の圧力を動力源にして、チューブ内の水を外部へ微量ずつ高圧噴射する。名付けて『歩行連動型・強制排水フットウェア』だ」
「すごい! 嵐水、天才じゃない! これなら明日から普通に出社して、石崎の丸刈り部長に書類を叩きつけられるわ!」
陽菜は一瞬で元気を取り戻し、目を輝かせ、さっそく『雨雲隠蔽コート・プロトタイプ1』を羽織って事務所の中をドヤ顔で歩き回った。
右足を一歩踏み出す。――プシュー。
左足を一歩踏み出す。――プシュー。
確かに、頭上から降り注ぐ大雨はすべてコートに吸い込まれ、彼女の顔周り以外は完全にドライに保たれている。足元から上がる小さなミストも、言われなければただの静電気防止スプレーか何かに見える……かもしれない。
「いや、やっぱり無理だ。一瞬納得しかけたが、冷静に考えろ」
俺は即座に、我に返って陽菜の言葉を遮った。
「歩いている時はいい。だが、お前がオフィスでデスクに座ってパソコンを叩いている時はどうする?」
「……あ」
「体重移動がないからポンプが動かない。座った瞬間から、椅子の周りだけ水がオフィスビルの絨毯に漏れ出して、床が水浸しになるぞ」
「た、確かに……!」
「おまけに、もし会議中に石崎部長に激怒して貧乏ゆすりでもしてみろ。足元からプシュー! プシュー! って猛烈なミストが噴射されて、まるで大物アーティストのステージ登場演出みたいになる」
「そんなの絶対嫌よ!?」
「丸の内に突撃するのは、物理的にも社会的にも自殺行為だ。一瞬で社内の都市伝説になるか、OAフロアをショートさせてビル全体を出入り禁止になるのがオチだな」
「じゃあ、やっぱり駄目じゃない……! 明日も会社に行けなかったら、またあの部長に『ひなたちゃんはのんびりできていいね』って言われるのよ……!」
陽菜はコートを羽織ったまま、再び古いパイプ椅子に崩れ落ちた。頭上で雨雲は、彼女の焦りと絶望に同期するように一層黒さを増し、冷たい水滴を落とし続ける。事務所の空気そのものが、彼女の悲しみの重さで張り詰めていくようだった。
陽菜の頭上で、雨雲がドロリと黒い液体のように澱み、激しさを増していく。
俺はふと、嫌な予感に眉をひそめた。彼女の感情と同期しているはずの雨雲が、陽菜の意志とは無関係に、まるで事務所の床を『何か』で侵食しようとしているように見えたからだ。
——彼女の涙を糧にして、雨は別の形へ変貌しようとしていた。




