第一話:その雨雲は、嘘に濡れる(その2)
事務所の床に、水滴が叩きつけられる激しい音が響く。
空調の効いた室内に充満する湿気と、焦げ付くようなオゾン臭。俺は自分の目の前で起きている物理法則の敗北を、逃げずに直視するしかなかった。
「……また『ヒナタ』って呼んだ。あの丸刈り部長、これで今月通算12回目よ! 私は『ひゅうが』! 日向 陽菜! 『ひなた・ひな』なんて回文みたいなマスコットキャラじゃないっつの!」
「日向って響きは格好良いと思うんだがなぁ。お前、寅年だし、なんか背番号9を背負って袖を捲り上げてそうな強さがある。こんど石崎にそう言ってやれよ」
「そういう次元の話をしてるんじゃないの!」
陽菜は昔から、この名前のせいで間違われて弄ばれることに強いコンプレックスを持っていた。
完璧でありたいと願う彼女にとって、『ヒナタちゃん』という響きは、自分の専門性や努力をすべて無効化して『可愛い女の子マスコット』の檻に閉じ込める、呪いの言葉のようだったのだ。
そんな陽菜の怒りの沸騰を、俺は冷めた目で見つめていた。なぜなら、俺の名前も『風見嵐水』だからだ。
風と、水。どちらも気象を連想させる、どこか収まりが良すぎる名前。
陽菜がその音の罠に苦しんできたように、俺もまた文字の並びの綺麗さを面白がられてきた。
ちなみに、この家に母という存在はない。俺のオフクロ――風見亜希子は、俺が高校1年生になったばかりの春、文字通り風のようにこの家からいなくなったからだ。
離婚したわけでも、病気で死んだわけでもない。ある日、学校から帰ると、リビングのテーブルの上に「ちょっとカリフォルニアの風のパターンを見てくる。偏西風の蛇行が気になるの」という、気象予報士の資格を持つ人間特有の、スケールの大きな狂った置き手紙が一枚残されていた。
それっきり、彼女はバックパック一つで成田から飛び立ち、完全に消息を絶った。親父が急死した半年前も、連絡を取る手段など物理的にどこにも存在しなかった。
俺を『風見嵐水』という名前にしたのは、他でもないあのオフクロだ。風を追いかけて消えた女と、水を操るようなプログラムを組む便利屋の親父。その二人の初期値の掛け合わせで生まれたのが俺というわけだ。
「おい、今ので雨雲が明確にワンサイズ育ったぞ。床に置いてある農家の糖度計に水がかかったら、今度こそセンサーの基板が死ぬ。白状しろ。お前、その丸刈り部長の下で、本当は相当無理をしてるんじゃないか?」
「無理なんてしてない! 完璧にやってるわよ! 大学院を放り出して休学してる便利屋の嵐水にはわからないでしょ!」
陽菜が、かけているサングラスの奥で目を激しく泳がせる。先週、みかんの糖度を100%見抜くバグに侵された際、脳が過剰な光過敏を起こしてしまったのだ。
こうして偏光サングラスで強い光を遮断していなければ目が痛むらしい。不条理なバグは、彼女に地味な後遺症を遺していく。
サングラス越しに眼と眼があった瞬間、俺の脳内でいくつかの点と線が、流体のシミュレーションのように一繋ぎになった。
「……おい、陽菜」
「な、なによ……」
「あくまで俺の推測だが。先週のみかんの糖度識別が、周囲の『他人の嘘』に対するお前の過剰な防衛本能だったとしたら……」
「は? 何言ってるの?」
「――今度は『自分への嘘』だ。お前は名前のコンプレックスがあるせいで、周りに一人前として認められたくて、無理に完璧な自分を演じようとしている」
「っ……! 演じて何が悪いのよ、社会人なら誰だって……!」
「だな。だが、その抑え込んだストレスと、心の中で泣いている自分という『歪み』が、周囲の空間の水分を異常凝縮させて本物の雨雲を作っているんだ」
「そんなスピリチュアルな理由!? 嵐水、どうにか消せないの!? 流体力学でしょ!?」
「流体力学は魔法じゃない。物理法則だ。だが――」
俺は、目の前でザーザーと雨を降らせている不可解な雲と、事務所の奥に眠る古い電子部品の山を交互に見つめた。
最先端のコンピューターを用いた流体解析の数式は、室内で発生した雨雲のシミュレーションなど役には立たない。けれど、俺が大学院を離れ、この『萬屋』のツナギを着ているのは、こういう理不尽な現実のバグを力技でねじ伏せるためではなかったか。
半年前、すべてを投げ出してこの場所を継ぐと決めた、あの騒がしい夜のことが、鮮明に脳裏に蘇る。
忘れもしない、半年前の冬の夜だ。親父の通夜の席は、終始おかしな熱気に包まれていた。
焼香が一通り落ち着いた深夜、地元の町工場や農家のオヤジ達が、代わる代わる俺の元へやってきて、青い顔をして俺のワイシャツの袖を必死に掴んできたのだ。
『おい、嵐水! 風見の親父さんが死んだら、うちのハウスの自動給水システムが完全にストップしちまったんだ!』
『うちの工場の古いプレス機もだ! 親父さんの遺した謎のソースコード、理系の息子のお前なら解読できるだろ! 頼む、明日からラインが止まったら家が潰れちまう!』
誰もが必死だった。彼らにとって、実家の『風見萬屋店』はただの便利屋なんかじゃなかった。
大手メーカーがとっくに保守を打ち切った古い精密機械や、地域の職人たちが各自の癖に合わせてカスタマイズしたシステムを、親父が独自に組んだプログラムのメンテナンスで維持し続けている、地域インフラの最後の砦。それが親父の正体だったのだ。
――だから、今更この程度の空間のバグに、へこたれてたまるか。
「萬屋のやり方で、打てる手は打ってみる。ひとまず、丸刈り部長の言う通り、今日一日会社は休め。有給を使え」
俺は重い溜め息をつき、シャッターの鍵を固く閉めた。
陽菜の瞳が潤み、その瞬間に雲がビリビリと不穏な火花を散らす。
――この不条理な雨を止める鍵は、彼女の心の奥底に隠されているのかもしれない。




